今も昔もガストが贅沢な場所であることに納得がいかないけれども

月に1度、父親に会うのが楽しみだった。

小学生になると同時に、僕の両親は離婚した。父親は会うたびに少し贅沢な外食とおこづかいをプレゼントしてくれた。この、少し贅沢な外食というのがまさにタイトルにあるガストのことで、小学1年から中学2年までの約8年、最寄り駅から少し離れたビルの1階にあるガストに通っていたのだった。

当時、団地暮らしだった僕にとってはたかだか600円ちょいのミックスグリルが本当に豪華な食べ物だった。家庭では、味見をしない母親が作る塩辛すぎる野菜スープや意図せず素材本来の味わいだけになっている薄味の魚肉団子などが振る舞われており、そういった母の「無自覚な悪意の塊みたいな手料理」を受け入れられず、僕は「食べる」という行為そのものがあまり好きじゃなかった。でもそれは仕方がないことで母は仕事で忙しかったから料理どころではなかったのだ。それゆえに一緒に食べる機会もほとんどなかった。すきま風が吹き通る食卓でたった1人不味いものを食べるそのむなしさが皆さんにはわかるだろうか。そんな僕にとって、たまにしか会えない父親と学校の話や趣味だったカードゲームの話など、なんでもない会話をしながら美味しい料理が腹いっぱいに食べられるガストは少年時代の僕のサンチュクアリだった。

しかし今はどうだろう。父親とガストに行くことはまずないし1人で行くとしても昔と違いお金を払うのは自分である。あの頃のように、ファミレスのテンプレートみたいな最低限の安っぽい内装と、500円以下のハンバーグがあれば今でも足繁く通っていたのだが値段はますます高くなるばかりでミックスグリルは1000円弱、山盛りポテトも400円超えとなり、見た目もだいぶ変わり高級感が増し格式高い雰囲気がある。

本当に不思議なのだ。昔も今も僕にとってずっと贅沢な店であるこのガストが。年齢だけで言えば大人と呼べるほどにまで成長したこの僕があの頃の僕と同じ目線で居続けられてしまっている。

「昔は高いと思ってたけど今は大人だから安く感じる」

と言わせてくれよバカヤロー!高けえんだよ!!


それでもガストにたまに行ってしまうのは何故なのだろうか?

思い出というものはそれほどまでに力を持っている。刻み付けられた過去、わざわざ消す必要もなく残されたものだ。別に過去に囚われているとかではない。今を見ていないわけでもない。なんていうか、ガストにやられたりって感じ。あるいは、たまたま少年時代の僕をガストが捕えることができたとも言える。要は巡り会わせ、せっかくだから、この縁から抜けるのはもったいない。だからといっていつまでもガストに囚われるのもどうかと思う。僕の中でガストが「ファミレスの基準」になっただけで、時々、別のファミレスに行き、「差」を、ガストとの「違い」を楽しめるようになればいいのだ。

小さい頃からお金をもらうことが好きでした