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自分のなかのアンチの思念体と向き合うということ(4/17)


SNSとかネットサーフィンとかでアンチを見すぎると自分の中にアンチの思念体が生まれてしまって辛いな?という話。


私はめちゃめちゃ自意識過剰なところがある。

(1)SNSのアイコンが決まらない。

似顔絵を書いてもらってようやくこれを解決した。

(2)飲み会で急に黙る。

自意識過剰なので「就活や恋愛や受験について語ること」についてめちゃめちゃメタ的に嫌だ!と思ってしまう。就活も恋愛も受験も選ばれることや選ぶことに関することであり、生き死にに関わることではなく どうもそれは面の皮をいじくっているような感じがしてもどかしくなってしまうのである それより今日食べたうどんの話とか良くわからないがたまに人を殴りたくなるみたいなそういう話が聞きたいとか思ってしまい黙りこくり大変コミュ障ひんしゅく野郎になってしまう


多分このように大変めんどくさい性格になってしまったのには理由がありそれはアンチのコメントを見続けたこと


自分がいくつかのメディアを運営する中で批判的コメントをつける人々そしてそのコミュニティを観察し続けたことに起因する

単に円滑なメディア運営だけを目的として、あらゆる人を不快にしないようにしようという気持ちで始めたのであるがいけなかった

私はどうも始めたらやめられない性分で(そもそも人間にとって、マイナス情報を見ないようにするというのは非常に難しい)、批判的コメントをするその人の思考ロジックを完璧に知りたいと思ってしまい、その人の全ツイートを遡ったりその友人の全ツイートを見たり、リアルな場で特定したり 匿名掲示板でその人を見つけ出したり(色々特定方法はあるのだ、)とエスカレートするようになってしまい

ついにはそういうアンチの思念体が内在するようになってしまった

アンチの思念体が内在するというのはどういうことかというと


つねに自分が何か発言したり、発信したりしようとするときに、

「はいはい人生楽しそうでいいですね」

「そんなことする余裕があるんだね。〜には〜で苦しんでいる人が沢山いるというのに...」

「初心者のくせにイキってんじゃねえよ」

自分で自分にネガティブなツッコミを入れてしまうということ、その観点と語彙を内在化させてしまったということである(もしかしたら、他人にも)


そういうのに嫌気がさしてしまいパッタリとSNSを更新しなくなった

なにを書こうにも一行ずつツッコミが入るんだから非常に疲れるんである(きっとアンチになりがちパーソンもそうなのであろう。高校の時だれにでも非常に辛辣な陰口をいうクラスメイトがいたのであるが自分に対しても辛辣なことばかり言っており生きるのが辛そうだった)


ただ最近、私がずっと馬鹿にしていた「SNSにいないものは、死んだものも同じ」は案外ただしいのかもしんねぇなと思い始めた


そう思ってしまうくらい発信の利益は大きい。 ここ1年で本当に一気にvaluとかタイムバンクとか影響力が即換金できるサービスもできて、SNSからの受注で稼ぎまくる学生クリエータとかも周囲に増えて発信が生活の糧になるというのは本当に身にしみた


そもそも客観的にコメントしてくる思念体を抱えながら生きていくというのはとてもつらい。メタ的に生きすぎると人は死にたくなるのだ


人間が、鏡にうつる自分自身のことをすこし美人に思えるようにできていたり、宝くじの期待値を高くみつもりがちだったりするというのは、それが人間の生存に必要だから淘汰を経てそうなったのだ。


そういう訳で、ここらでちょっとエゴイスティックに、自分のぐだぐだを、内在的批判があろうと書いて、なんとかひっそり公開するという行為をしないと、辛いな?と思い、日記的なのをだるだる書いていこうと決意した午前1時。



#アンチ #メディア #日記








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