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【自己紹介】はじめまして


はじめまして
noteご覧いただきありがとうございます✨

米澤志歩(よねざわ しほ)と申します
はじめましての方。すでに仲良くさせていただいている方含めみなさまに私がどんな人物かわかりやすくお伝えしたいと思います。

現在はキャリア支援、不動産仲介営業、イベント主催、看護師の仕事をしており、法人化に向けて起業の準備をしています。

よく「そんなに仕事をして大変じゃない?」と聞かれます。


はい。大変っちゃ大変です(笑)

ですがそれ以上の得られるもの、想いがありこれらの仕事に取り組んでおります✨

なので、この記事ではわたしがどんな人間で、どんな経験をし、今何を大事にし日々仕事に取り組んでいるのか。
それをお伝えできたらな思います。


子ども時代の経験から得た安定思考

私は物心ついたときには、父と父方の祖母の三人で宮城県の田舎で暮らしていました。
超のつく田舎で最寄り駅まで徒歩40分、田んぼに囲まれた住宅、なんなら群民です。
一人っ子かつ田舎の子どもの遊びといえば山々を駆け上ったり、蟻の巣の観察、山菜や川魚を採るといったアニメに出てくるようなのどかな遊びばかりをしていました。

私は物心ついた時より母とは別で暮らしており、中学にあがるときには生家を親の借金で売却する、お風呂は月に1回のため洗面所で身体を洗う、たまに怖いおじさんが家に来て暴れるという幼少期、思春期を過ごしました。なかなかハードな生活でしたが、今となっては感謝している部分はたくさんあります(笑)

そんな経験のおかげか早く自立したい、1日でも早くお金を稼いで今の生活を変えたいという思いが強く育ちました。
まさか大人になった自分が起業という選択肢を選んでいるなど1ミリも想像できませんでした。

進路を変えた出会い

安定を求め、選んだのは看護師という職種でした。家庭の事情もあり、看護学校には20歳の時に入学。現役の2個下の子たちと一緒に勉強していました。
国立系の学校だったおかげで、就職の候補はたくさんあり、どこを選んでもいいという恵まれた環境でした。
とにかく手に職をつけたい!そんな思いで入学したものの、いざ進路選択の話に現実味を帯びてきたのが2年生のときです。
「このまま附属の病院に就職でいいんだろうか」「一生宮城にいて外の世界を何も知らないままなんだろうか」「自分がしたいことってなんだろう」
そんなもやもやを抱えながらも、目の前の課題や実習に追われた時期に、その後の自分の人生を大きく変えてくれる人との出会いがありました。

親戚に待望の赤ちゃんが生まれたのです✨
兄弟のいなかった私は、自分の弟のようにかわいがり、毎週のようにその子の家に行き、お世話をしていました。
ここまで聞くとほっこりエピソードですが、1個だけ違ったのは、彼はダウン症という染色体異常の障害をもって生まれてきたのです。
当初はショックでしたが、それ以上にショックを受けているその子の母親や周りの反応は今でも覚えています。
成長していくにつれ、実感するその子に必要な医療、福祉サービス。またそれらサービスへの感謝しつつも「もっとこうしてほしい」といった想いが強く育つようになりました。「日本は社会福祉が恵まれている国って思ってたけど当事者に立つと全然足りない!なんで!?」そんな気持ちでいっぱいでした。
そんな経験から、子どもとその家族のためにできることを仕事にしようと決め、東京での最先端技術をもつ小児病院の新生児集中治療室に就職しました。

やりたいこと=仕事は違ったのか

新生児集中治療室(NICU)といえばドラマ「コウノトリ」をイメージする方が多いと思います。
まさにあのドラマのような感じで、1000gもない子や生まれつき病気や障害がある子など、多くのお子さんが治療をする場所です。

そんな職場に就職し毎日必死に働いていました。やりがいもあり、新しい知識を得ることがとにかく楽しかったです。
医師の英語で書いた心臓のカルテの翻訳をしたり、研修に自腹で申し込んだり、先輩を押しのけて院内研修に参加し、夜勤明けや夜勤前には勉強会に参加、休日の半分は図書館で勉強をしていました。
とにかくこうと決めたら譲らない猪突猛進タイプなのです🐗💨

その努力のおかげもあり、職場ではロケットペンシルのように性格の尖った先輩にも一目置いてもらえており、自信をもって仕事ができることが増え、努力の積み重ねは自分の中で信念と力になること何事も努力量、時間は必要で近道はないことを実感することができました。


月の半数近くは夜勤、連日の残業で当時は病院に住んだ方がいいのではないかと本気で考えてました笑
今思えば24時間中15時間は病院にいたと思います。

そんな生活を続けていたら当然身体にガタはきます。
新卒一年目にして身体を壊し退職することになってしまったのです。

この時わたしが直面した壁は
やりたいこと🟰仕事にはならないのではないか?ということです。


人生を変えた第二の出会い

転職後のわたしはとにかく暗かったです。当時の私を知る人からは「なんかめんどくさいやつ」だったそうです(笑)

やりたいことをやるために東京に上京したものの、その目標も挫折。このまま東京にいる意味はあるのだろうか。
そんなことを悶々と考えつづけていました。
ついこないだまで、この職場で極めていこうと燃えたぎっていたものがぽきっと折れてしまった感覚でした。

そんな時期にご縁があり、とある方とお話しする機会がありました。
その方は生物系の大学のご出身、病院で働いた経験もあり、出会った当時から自分で事業をされていました。

なんとなく社長さんなら世の中の仕事も沢山知ってそう。そんな軽い気持ちで、自分の今後のキャリア、ひいてはライフプランについて相談させていただいたのです。

その方と話をして驚いたことは、その方の仕事に対する考え方、取り組み方、周りで仕事をしている人の違いです。
仕事をとにかく楽しそうにやっているのです。
飲み会でもやっているのかと思うくらい、仲間とゲラゲラ笑いながら仕事をし、時にはマンガの覚醒モードのように真剣に取り組み、最後には結果を残していました。


めちゃくちゃかっこよかったのです、、その働き方が。

どうしたらそんな風に働けるんですか?
どうやったらもっと収入が得られてやりたいことを仕事にできますか?
こう質問をしました。

言っていただいたのは
•こうなりたいと思えるモデルを見つけその人の真似をすること
•読書をしながら沢山の人と交流し情報を得ること

とてもシンプルな回答でした

え?そんなことでいいの?とも思いました。
この日からわたしは今まで手に取ることのなかったビジネス書を読み、同じようにキャリアチェンジを考えてる人や一足先に結果を出している人たちと沢山コミュニケーションをとるようになったのです。

ここで大きく学んだのは
理想(やりたいこと)を実現するには人的、社会的、金銭的な力がいること
どれ一つかけてても、飛び抜けててもだめで、その三つの力を鍛えてあげていく必要がある。
それが何がおきても揺れない基盤になるのだと知りました。

そのなかでも順番が大切、まずは自分のお客さんたる人達、一緒に目指す仕事仲間をみつけることいわゆる自分のコミュニティつくりをしていくことが必要です。

本と人との出会いでこれまでと大きく考え方が変わったわたしは「起業」という選択肢を選びコミュニティつくりに取り組みはじめました。
(コミュニティつくりの面白さはまた別でお話しできたらと思います✨)

25年間生きてきて大きなチャレンジでした。


キャリア支援

わたしがキャリア支援の仕事をしている理由は自身の体験からくるものです。

学生時代のわたしは資格や大手企業に入ることが幸せにつながっているのだと信じていました。

たしかに今の親世代のころはそれがよしとされてきましが、ものすごい速度で移り行く社会、今後の未来は会社だけに依存するのではなく個々の力をつけていくこと
また目標をもって働くことがより大事になってくると考えています

今の20代、30代の方達が今後家族を持った先に自分の大切な人たちを守れる力
自身の人生をより良いものにさせていく力をつけて欲しい
そんな思いでキャリア支援の仕事をしています。

今後のビジョン

最後にわたしがこれから思い描いていることをお伝えして締めとさせていただきます。

最初にお話しした通り私の進路を決めるきっかけとなった親子には感謝してもしきれません。またNICU時代に出会ったたくさんの子どもたちは私の価値観に大きく影響しています。

日本はどんどん少子化が進んでいきます
同時に医療技術の発展によりお家でも治療をしながら生活ができる状態となってきました。
インクルーシブ教育が増えていく中の課題としては医療的ケア児の教育、受け入れる施設に限りがあること家族の負担などがあげられます。

わたしは沢山の病気を抱えた子どもたちと関わってきましたが彼らの生きる力、成長する力のすごさを体感しています。
家族が「大変だけど今日も子どもと一緒に笑顔でいられた」そう思える日が一日でも多くあってほしいと願っています。

だからこそ医療的ケア児、障害児の教育支援、施設やサービスを増やすこと、ご両親がより子どもや自分の時間を取れるような支援をしていくことか今後の目標でもあります

まずは基盤の一つとなるコミュニティつくりに今後も取り組み、やりたいことが仕事としてできる人生をつくっていきます。


ここまで読んでいただきありがとうございました✨


進路を変えた出会いにて紹介した
親族の子どもとの写真です✨





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