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同人文芸誌『Pan』と、謎の作家?「森のぶ子」について。


 戦後期の同人文芸誌『Pan』と「森のぶ子」。 

 1949(昭和24)年に創刊された『Pan』という同人文芸誌がある。京都大学構内で編集・発行された雑誌で、京都大学だけでなく、関西圏に存在したさまざまな大学・専門学校の在学生や教員が寄稿していた。

 ”Pan”というのはギリシア神話の牧神「パーン Πάν」のこと。
 第2号巻頭には、のちに京大で教鞭をとることになる(が当時はまだ大学生であった)小島衛(1928~2001)による、ステファヌ・マラルメ「半獣神の午後 L'Après-midi d'un Faune」(半獣神とは牧神パーンのこと)の一節が、「牧羊神」というタイトルで翻訳されている。

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 1号のみ副題「関西学生文芸総合雑誌」、2・3号には「学生文芸」とだけ記されている。1950年に全3号で終刊を迎えたらしい。ドイツ文学専攻の学生たちが中心になって編集していた、熱意が活字を着て読まれているような雑誌だった。表紙(これもギリシア彫刻風の「パーン」であろう。かわいい)はおそらく、当時京大で美術部員だった上平貢(1925~2012)によるものではないかと思われる。

 私は現物を偶然入手するまで寡聞にして知らない雑誌だったが、原稿用紙100枚を超える小説や戯曲が掲載されており、当時としてはかなり存在感のある雑誌だったのではないだろうか。
 編集もしていた安芸礼太郎が1989年に『幸福の階段 シンデレラシンドローム』(近代文芸社)を刊行している以外では、小説家として立った者はいなかったようだが(筆名を変えていたらわからないけど)、第3号には後に詩人として活躍する天野美津子(1919~1965)の詩作品が掲載されているなど、掲載作品のレベルもある程度維持されていた。

 ほかには、後にドイツ戯曲研究者となる近藤公一による戯曲作品「砂浜」や、後に数学者の提示したパラドックスを意味受容論などの観点から研究したりしている富川滋による随筆「読書に就いて―哲学の周辺―」など、さまざまな書き手の〈その後〉が胚胎したような〈デビュー作〉が数多く掲載されていて面白い。
 第3号に掲載された杉原重治「ニイチェの日本に与えた影響の展望」は、岡山大学の教員であった杉原の死後『生の肯定 杉原重治遺稿集』(杉原重治遺稿集刊行委員会、1985年)にも収められている。

 そうした作品たちにまじり、「展覧会の絵」という掌編作品が掲載されている(第2号)。作者は「森のぶ子」。1950年当時、「同志社女専」(同志社女子専門学校。現在の同志社女子大学)に在学中であったという。
 女子専門学校は1948年入学者までしか存在しないはずなので、生年は1930年(留年していたら-2ほどの可能性あり)というところだろうか?

児童文学作家「森のぶ子」と同一人物なのか?

 「森のぶ子」とgoogle検索すると、同姓同名の児童文学作家がいることがわかる。同一人物だろうと思ったが、万一ちがうということもありうるので、一応調べてみた。違った

 1932年、東京都に生まれる。都立三田高校卒業、慶応外語学校2年修了。朝日新聞社内「朝日児童文化の会」機関紙編集、日本銀行行内報編集を経て、現在、日本銀行貯蓄推進局勤務。
「サラサラ姫の物語」で日本児童文学者協会新人賞受賞。ほかに「おはなし12か月」などの著書がある。
   ――『サラサラ姫の物語』(青い鳥文庫、1981)

 同志社女子専門学校卒なら京都、少なくとも関西圏出身とみるべきだろう。それに、生年もやや遅い。そもそも同志社女専と経歴に書いていない。隠す理由もないはずである。この時点から20年後に上梓された著書では、経歴が加筆されて以下のようになっている。

  日本女子大学児童学科卒、卒論「中国のSF」。朝日児童文化の会機関誌編集を経て日本銀行行内報編集、その後貯蓄関係の広報担当。同人誌童話文学別冊「サラサラ姫の物語」で日本児童文学者協会新人賞を受賞。1989年3月、日本経済新聞文化欄に「貯金箱、ブタ君にも歴史あり」を発表。これを機に日銀退職。
   ――『カチカチ山裁判 高齢社会日本のおとぎ話』(新風舎、2001)

 日本女子大学児童文学科卒の証拠は存在する。日本女子大学で教鞭を執っていた山室静が教え子であった安房直子とともに創刊・主宰していた児童文学同人雑誌『海賊』に森の作品が掲載されているためだ。

 特に、同誌同人であった作家たちによる『海賊』掲載作傑作選として出版されたアンソロジー『にぎやかな首飾り』に、以下の森作品も収録されている(森のぶこ 名義)。

・「砂の中に」:『にぎやかな首飾り』(出帆新社、1982年6月)
・「漁光曲」:『にぎやかな首飾り 2』(出帆新社、1983年8月)

 それに、『サラサラ姫の物語』(青い鳥文庫、1981)では、巻末の「解説……豊穣なファンタジー」を寄稿しているのが指導教員であった山室静そのひとであったりする。

 というわけで、私は1950年の『Pan』に掲載されている「展覧会の絵」の作者「森のぶ子」は、児童文学作家の「森のぶ子」とは別人であると結論付けておきたい。

 ちなみに、岡山大学出身の森暢子という政治家が「森のぶ子」名義で著書を出していたりと、同姓同名が多い名前であることは間違いない。漢字がひらかれた「のぶ」の部分が入っていることも原因である。

「展覧会の絵」ってどんな作品なの?

 では、『Pan』に掲載されているという「展覧会の絵」ってじゃあどんな作品なの? というところなのだが、これについては、現在私が編集を担当している同人文芸誌『デュメリル』の次号に収録することで公に紹介しようかと考えている。

 ちなみに『Pan』編集人であった小島衛からは、

 短篇とは云へ、フランス的教養が肉軆化してゐる作者を感じさせます。

 と評されている。文学とは抒情を拒絶する現実との対決である云々という方には物足りないだろうけれども、切ない青春の断片が香っている落ち着いた筆致の作品である。戦後期にもこういった作品があったのだなと思わせる、少女小説的な佳篇なのである。

 というわけで、「展覧会の絵」の著作権保持者である「森のぶ子」さんをご存じの方(あるいは親族の方)がいらっしゃいましたら、当方までご連絡ください。どうか、よろしくお願いします。

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