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伝統芸能(詩吟)を広めたり、残す必要性は本当にあるの?

heyheyです。

僕はかねてから「詩吟をもっと広めたい」「詩吟が無くならないようにしたい」と思いながら活動してきました。

でも一方で、本当にそんなことをする必要があるのかどうかも悩んできました。

  • 年配の方しかやっていない

  • 大会で他の方が吟じているのを聴いても、しっくり来ることが少ない

  • 友人に見せたい!!とはあまり思えない

僕は、詩吟を素晴らしいと思っています。
思っていなければ、20年以上も詩吟を続けていたりしません。

でも「詩吟業界」を素晴らしいとは感じていません。
伝統芸能としての「詩吟」に価値を感じ、広めたい・残したいと思っているのです。

1.なぜ伝統を残さないといけないのか?

じゃあ詩吟の何が良いのか?何が価値があるのか?

ここが、どうも言語化できずに困ってました。
それがようやく、素晴らしい発信を読んで、しっくり来たのでご紹介します。

僕の雑な理解と説明で申し訳ないのですが、こんな内容です。

(伝統芸能を含めた)伝統は素晴らしい、大切だ。と言われるけれども、その理由をこれまで言語化できていない。また、そんな土壌があるから、言語化する必要性から避けてきたが、世の中は着々と動いている。伝統も市場の中に取り込まれている。伝統の価値を明確にして、強みとして磨かないと、市場に飲み込まれて消えていく。今まさにそのような状況になっている。
では、伝統の最も本質的な価値とは何か?それは①フォーマットとしての価値、②アイデンティティの源泉としての価値、である。フォーマットがしっかりしているからこそ、作品に説得力や奥行きを持たせることができる。技術の進歩によって国境がどんどん無くなっているからこそ、日本人としてのアイデンティティを伝統から感じることができる。

2.詩吟の価値とは何だろう?

詩吟をすると、健康に良いとか、人前で堂々とできるとか、そんなメリットがありますが、決して本質的ではありません。

そんなものは、他の趣味でも十分事足りるからです。
詩吟にしかない本質的価値はなんでしょうか?

もっと時間をかけて考えたいところですが、とりあえずでも言語化しておくことに意味があると思い、僕の頭の中を吐き出したいと思います。

詩吟の本質的価値とは、①詩文を発掘できること、②詩文を演劇として昇華できること、だと思います。

①詩文を発掘できること

詩吟で吟ずる対象は、漢詩や俳句、和歌などが主です。
漢詩となると、その歴史は計り知れません。
紀元前にすら漢詩はちゃんと存在しているからです。

例えばこんなものがあります。

垓下の歌 / 項羽
力山を抜き 気は世を蓋う
時に利あらず 騅逝かず
騅の逝かざるを如何にすべき
虞や虞や汝を如何んせん

項羽は紀元前200年代の武将です。中華統一を果たした秦の国を劉邦と一緒に滅ぼした人ですね。

例えば
「この歌詞ってさ、30年前のものなんだよねー」
といわれたらちょっと驚きませんか?
「へー!そんな昔のものなのに、こんなに格好いいんだ!」みたいな感覚ですね。

それがもっと拡大して
「この歌詞ってさ、2000年前のものなんだよねー」
と言われたら
「ええええええ!?!?!?!」となるハズです笑

他にも、過去に偉人傑人が多く漢詩を残しています。

有名な戦国武将であったり、明治維新の立役者であったり、天皇様であったり、文豪家であったり…本当に枚挙に暇がありません。
和歌においても、百人一首が有名ですよね。万葉集とか古今和歌集とか。もりだくさんです。

ただ、これらの詩文は「詩集」として残されているのがほとんどです。

詩集にある詩文を見て、読んで、「・・・ほぉ、素晴らしい・・・。」と感じて終わりです(いや、実際はもっと色々あるのでしょうが…)

過去に生み出された詩文を発掘できること。再び人目に付けるようにできること。これは詩吟の大きな価値(役割?)だと思います。

②詩文を演劇として昇華できること

漢詩や俳句・和歌は、どれだけ素晴らしいものがあろうと、一度読んで終わりです。
口に出すことすら無いかもしれません。
目でじっとなぞって、一人で何かを感じて終わり。

それでは他の人には伝わりません。
知りたい人しか出会うことができません。
そもそも知らない人は全く出会うことすらできません。

また、本当は詩文にもっと深い意味があったとしても、みんながみんな感じ取ることも難しいです。
目でなぞって終わり。
数秒口ずさんで終わり。

これでは勿体ないです。

詩吟は、これらの詩文を1分半~2分という「演劇」に昇華して、多くの人に届けることができます。

場合によっては剣舞や詩舞も合わせて
なんなら尺八や琴の生演奏も付けて
さらには劇も構成して
演劇として最大限に昇華することができます。

「昇華」という言葉が正しいのか分かりませんが、詩文に込められているものを、最大限まで活かしきることができるのが詩吟です。

詩吟として吟じることで
多くの人に、(数分ですが)時間をかけて伝えることができるし
感情表現も載せて、心に訴えられるようにもできます。

3.詩吟の本質的価値を考えてみる

上記の内容から、詩吟の「本質的価値」をもう少しだけ考えてみます(時間が無くて書きなぐりなのが申し訳ないですが)

「①詩文を発掘できること」は、概ね当たっていると思います。

せっかく過去に素晴らしいものがあるのだから、しかも今にも残っている重みのあるものだから、是非とも世に出したいですよね。

でも、ただ「世に出したい」では浅すぎます。
今にも残っているというのは、それだけ価値があるということです。他のだれかが価値を感じ、残したいと思ったからです。

それをしっかりと抽出し、言語化できないと、世の中には伝わりません。
現代の人に伝わるような形で、そのすばらしさを伝える工夫が必要だと思います。

現代の人に刺さる偉人傑人を選ぶとか、有名な漫画や映画に使われたものだとか、ちゃんと伝わるものを選んで、もっと伝わるように導線を作る必要があります。

もしくは、全然世に知られていないけれど、知ってもらえれば伝わるすごい詩文だってあるかもしれません。それを現代の人に伝わるようにするのも大切です。

そういう作業も含めての「掘り起こし」なのだと思います。
詩吟の為すべき役割、残すべき価値はここに近いような気がします。


「②詩文を演劇として昇華できること」も、そんなにズレていない気がします。

上記の内容と被っている気がしますが、詩文をただ読む形ではなく、演劇として楽しめるフォーマットに変えること。コンバートできることが本質的価値な気がします。

実際に考えてみてください。
漢詩をどうしたら舞台で楽しめるようにできるのか?
俳句や和歌を舞台で魅せられるようにできるのか?

これ、結構難しいです。
だからこそ、詩吟があるのだと思います。

独特な音階で、節回しを付けて、力強い発声で吟じるというスタイルは、そうやって作り込まれたのではないでしょうか。

なので、それを踏襲することも大事なのですが、「演劇としてコンバートする」という視点で詩吟をとらえることも負けないくらい大事だと思います。

詩吟が広まった昭和の時代には、今の詩吟のスタイルが聴衆によく響いたのであって、令和には違うかもしれません。

でも「詩文を演劇としてコンバートする」というのが本質であるならば、その姿勢を貫き、「どうすれば詩文を現代のエンタメやコンテンツとして昇華できるのか?」を考えることもまた、詩吟と言えるのかもしれません。


とりあえず、今日はここまでにします。
もっと考えたいし、もっときれいに言語化したいです。
(昇華、という言葉も正しいのか怪しいですね。漢詩が下で、演劇が上なんてことは決してありませんから)
とはいえ、少しでも「詩吟の本質的価値」について言語化が進められたので良しとさせてください🙇‍♂️

ここまで読んで下さった方、ありがとうございました!

僕は今、伝統芸能の価値を再発掘しようとしている「Senju DAO」というコミュニティに所属して活動しています(始めたばかりですが)

上記のTwitterのリンクから、最後まで読んでいってください。
(そこにコミュニティに関する情報もありますので)
念のため再掲します↓↓↓










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