見出し画像

有島武郎作『一房の葡萄』について

このノートは、『一房の葡萄』を朗読する際の一助として、その背景などについてメモったものです。今後も、加筆修正を加えていくことになると思います。複製、転載はご遠慮ください。

「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 

ヨハネによる福音書 15章5節 横浜英和学院HPから

1.背景


『一房の葡萄』は、雑誌『赤い鳥』1920年8月号に掲載された作品です。その後、この作品を含む4編が単行本『一房の葡萄』(叢文閣)として1922年に出版されています。

この話は、有島武郎(1878-1923)が6歳の時に入学した横浜のブリテン女学校(現横浜英和学院)での思い出を書いたものです。当時の学校は、横浜山手の海に近いところにありました(1)。なお、実際の地名は山手(やまて)ですが、お話の中では山の手と書かれています。音の響きの良さで選ばれたのかもしれません。

有島武郎の父は薩摩藩郷士出身の官僚で士族でした。有島家は裕福で、父は大蔵官僚として、また、事業でも成功を収めています。有島武郎が4歳の時に、父が横浜税関長に就任し、一家で横浜に移ります。父の教育方針により、米国人家庭で生活し、その後、ブリテン女学校に通います。

10歳で学習院予備化に編入、その後、札幌農学校に入学。教授の新渡戸稲造から一番好きな学科を問われ「文学と歴史」と答えて失笑を買ったとのこと。内村鑑三らの影響を受けて、1901年にキリスト教に入信。米国のハバフォード大学院、ハーバード大学で学び、社会主義に傾倒。ホイットマンやイプセンらの西洋文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受けたとされます。欧州にも渡ったのち、1907年に帰国。このころ、信仰への疑問を持ちキリスト教から離れます(2)。

幼少のころ、有島武郎は後継ぎとして厳しく育てられています(3)。

「父は長男たる私に対しては、殊に峻酷(しゅんこく)な教育をした。小さい時から父の前で膝を崩すことは許されなかった。朝は冬でも日の明け明けに起こされて、庭に出て立木打ちをやらせれたり、馬に載せられたりした。母からは学校から帰ると論語とか孝経とかを読まされたのである。一向意味もわからず、素読するのであるが、よく母から鋭く叱られてメソメソ泣いた事を記憶して居る」

『私の父と母』より。

物語の中で主人公は上質な絵の具を欲しがります。有島武郎の家は裕福だったため金銭的に買えないものではなかったでしょうが、父母に絵の具を買って欲しいということができる家庭環境ではなかったのでしょう(3)。

主人公は、西洋人ばかりが住む町の西洋人コミュニティの中で、疎外感を抱いていた当時の有島武郎の心情が反映されているとの見方もあります。絵の具を盗んだのは、決してその絵の具が欲しかったからだけではなく、西洋人に対する気おくれ、被害妄想、敵対心かがあったのではないかという指摘があります(4)。

一方で、有島武郎は親譲りの躁鬱があり、『一房の葡萄』は鬱の状態ですが、武郎の遊び仲間だった佐山英男によれば「有島君は常にガキ大将でいたずらもすれば乱暴も働くというわけで実に快活に暮らしていたのです(略)仲間の間には『錬磨会』といういうのを組織し、有島君自らが会長となって牛耳をとって威張ってゐたのです。併しきわめて状にもろい性質で友達に対しては実に親切でした」(佐山英雄「少年時代の有嶋君」(「生活文化」大正12年9月)というのがその姿でもあり、「内と外の二つを顔をもっていたと考えるべきであろう」との指摘があります(5)

「葡萄」は、このメモの上段に貼付したヨハネによる福音書の一説が想起されていると考えられます。であれば、一房の葡萄を分ける行為は、主人公とジムをつなげる行為であり、神とつながれることにより、皆が豊かに実をつけるということを意味するのでしょう。

物語は、有島武郎のキリスト教観が表れていると考えらます。上述のように、1907年にキリスト教から離脱をしていますが、それは、この時代の日本のキリスト教が、信者を広めるために土着化し、儒教思想や「家」などの日本の価値観を取り込んでいたため、それを「偽善」と考える信者が「教会を脱退、背教者の烙印を敢えておされることを通して、キリスト教から受けた「生命」を日本の土壌に実現して生きようと追及するようなタイプであって、有島武郎などもその一人と言えると思う。『思想史の方法と対象』、1961創文社、278ページ)という指摘があります(6)

有島武郎の宗教観がにじむ作品の一つである『燕と王子』のノートはこちらです。オスカー・ワイルドの原作と比較すると、ワイルドが耽美的にストリーを作り上げているのに対して、有島武郎は、博愛を色濃くにじませてストリーをリメイクしていることがわかります。例えば、原作では、燕は王子とともに命を失い、ワイルドらしい耽美的な場面と世界が描かれます。しかし、『燕と王子』では、最後は諭されて南方に飛び立ち次の春に戻ってきます。燕を王子に道連れすることを潔しとしなかったのかもしれません。

2.絵具について


物語りに出てくる絵の具は、チューブではなく固形のものとのことですが、これは、当時「ケーキ」とよばれた水彩画用のものと思われます。西洋の水彩画が日本に輸入されたのが1887年ころとのことですが、有島武郎が6歳でインター校に入学したのがちょうどそのころですから、確かに高価な製品であったことでしょう。ということで、主人公が描いていた絵は、当時はまだ始まったばかりの水彩画ということのようです。

1989年には、国内で水彩絵の具が製造されるようになりましたが、絵皿が入っていたそうです。これは、日本画では顔料と膠を絵皿で溶いて使っていたことから来たものでしょう。1897年にチューブ入りの絵の具が輸入され始め、日本においても水彩画ブームが起こったとのことで、1909年にチューブ入りの国産絵の具の製造がはじまりました。ちなみに、チューブが使われる前、18世紀末は、豚の膀胱が使われ、その後、1828年に充填可能な真鍮のシリンジが登場し、油彩絵の具用に使われたそうです。1840年にはガラス製のシリンジが登場し、水彩絵の具に使われました。シリンジ型は再生利用のための洗浄が面倒だったことから、1841年に、使い捨ての錫製のチューブが登場しています。1930年代には、価格が下がってきたアルミが使われるようになたとのことです。

物語りで藍色(あいいろ)と洋紅色(ようこうしょく)が出てきます。藍色は、日本に古くからある藍染の「藍」は西洋では絶賛されたものでした。北斎は当時(1747年に初めて)海外から輸入された合成顔料で、透明感のある色をだせる「ベロ藍」と呼ばれたペルーシャンブルーを愛用していましたが、このいろは群青色に近いものです。印象派の画家たちが使用していたのでは、コバルトブルー、ウルトラマリン、セルリアンブルーがあります。ウルトラマリンは高価な鉱物から作ったもので、コバルトブルーはその代替物としてフランスの化学者Louis-Jacques Thénardが内務大臣の命を受けて1802年に開発されたものです。明るく透明感のある青色で19世紀半ばから生産が始まり幅広い用途に使われています。物語りに登場する「藍」とは、このコバルトブルーかもしれません。

洋紅色は、深く鮮やかな紅赤色。江戸後期に西洋から伝わったもので西洋名は「カーマイン」です。カーマインは、コチニール(カイガラムシの一種:臙脂虫(えんじむし))の雄から得られる紅色の色素です。コチニールは古代アンデス文明でも使われていた天然染料です。船の喫水線あたりの赤い色を出したいため欲しがったいろですので、下の色見本よりもう少し深い赤色だったのだろうと思います。

3.『一房の葡萄』本編


以下、有島武郎全集第六巻、筑摩書房、昭和61年3月1日初版2刷に掲載されているものに沿って、スペースとルビをふったものです。


 僕は 小さい時に 絵を描くことが好きでした。僕の通ってゐた学校は 横濱の山の手という所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んでゐる町で、僕の學校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその學校の行きかへりには いつでも ホテルや西洋人の會社などがならんでゐる海岸の通りを通るのでした。通りの海添いに立って見ると、眞青な海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでゐて、煙突から煙の出てゐるのや、檣(ほばしら)から檣へ萬國旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいやうに綺麗でした。僕は よく 岸に立ってその景色を見渡して、家に帰ると、覺えてゐるだけを出来るだけ美しく絵に描いて見ようとしました。けれども あの透きとほるような海の藍色(あいいろ)と、白い帆前船などの水際近くに塗ってある洋紅色(ようこうしょく)とは、僕の持ってゐる絵具では どうしてもうまく出せませんでした。いくら描いても描いても 本當の景色で見るやうな色には描けませんでした。

 ふと 僕は學校の友達の持ってゐる西洋絵具を思ひ出しました。その友達は矢張(やはり)西洋人で、しかも僕より二つ位齢(とし)が上でしたから、身長(せい)は見上げるやうに大きい子でした。ジムというその子の持ってゐる絵具は 舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二種(いろ)の絵具が 小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでゐました。どの色も美しかったが、とりわけて藍と洋紅とは 喫驚(びっくり)するほど美しいものでした。ジムは僕より身長(せい)が高いくせに、絵はずっと下手(へた)でした。それでも その絵具をぬると、下手な絵さへ なんだか見ちがえるやうに美しくなるのです。僕は いつでもそれを羨やましいと思ってゐました。あんな絵具さへあれば 僕だって海の景色を本當に海に見えるやうに描いて見せるのになあと、自分の悪い絵具を恨みながら考へました。そうしたら、その日からジムの絵具がほしくってほしくってたまらなくなりましたけれども 僕はなんだか臆病になって パパにもママにも買って下さいと願う氣になれないので、毎日々々その絵具のことを 心の中で思いつづけるばかりで幾日か日がたちました。

 今ではいつの頃だったか覺えてはゐませんが 秋だったのでせう。葡萄の實(み)が熟してゐたのですから。天氣は 冬が来る前の秋によくあるやうに、空の奥の奥まで見すかされそうに晴れわたった日でした。僕達は 先生と一緒に辨當(べんとう)をたべましたが、その楽しみな辨當の最中(さなか)でも僕の心はなんだか落着かないで、その日の空とはうらはらに 暗かったのです。僕は自分一人で考へこんでゐました。誰かが氣がついて見たら、顔も屹度(きっと)青かったかも知れません。僕は ジムの絵具がほしくってほしくってたまらなくなってしまったのです。胸が痛むほどほしくなってしまったのです。ジムは 僕の胸の中で考えていることを知っているにちがひないと思って、そっとその顔を見ると、ジムはなんにも知らないやうに、面白さうに笑ったりして、わきに坐ってゐる生徒と話をしてゐるのです。でも その笑ってゐるのが僕のことを知ってゐて笑ってゐるようにも思へるし、何か話をしているのが、「いまに見ろ、あの日本人が僕の絵具を取るにちがひないから」といってゐるやうにも思へるのです。僕はいやな気持ちになりました。けれども、ジムが僕を疑ってゐるやうに見えれば見えるほど、僕はその絵具がほしくてならなくなるのです。

 僕は かはいい顔はしてゐたかも知れないが、体も心も弱い子でした。その上臆病者もので、言いたいことも言わずにすますやうな質(たち)でした。だからあんまり人からは、かはいがられなかったし、友達もない方でした。昼御飯がすむと 他の子供達は活溌(かっぱつ)に運動場(うんどうば)に出て走りまはって遊びはじめましたが、僕だけは なほさらその日は變(へん)に心が沈んで、一人だけ教場(きょうじょう)にはいってゐました。そとが明るいだけに教場の中は暗くなって、僕の心の中のやうでした。自分の席に坐ってゐながら、僕の眼は時々ジムの卓(ティブル)の方に走りました。ナイフで色々ないたづら書きが彫りつけてあって、手垢(てあか)で眞黒になっているあの蓋を揚げると、その中に本や雑記帳や石板(せきばん)と一緒になって、飴のやうな木の色の絵具箱があるんだ。そして その箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くなったやうな氣がして、思はずそっぽを向いてしまふのです。けれども すぐ又(また)横眼でジムの卓(ティブル)の方を見ないではゐられませんでした。胸のところがどきどきとして苦しい程でした。ぢっと坐ってゐながら 夢で鬼にでも追ひかけられた時のやうに 氣ばかりせかせかしてゐました。

 教場に、はいる鐘がかんかんと鳴りました。僕は思はずぎょっとして立上りました。生徒達が大きな聲(こえ)で笑ったり呶鳴(どな)ったりしながら、洗面所の方に手を洗ひに出かけて行くのが 窓から見えました。僕は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを 氣味悪く思ひながら、ふらふらとジムの卓(ティブル)の所に行って、半分夢のやうにそこの蓋を揚げて見ました。そこには 僕が考へていたとほり 雑記帳や鉛筆箱とまじって見覺えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知らないが 僕はあっちこちを見廻してから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けて藍と洋紅との二色(ふたいろ)を取上げるが早いかポッケットの中に押込みました。そして 急いで いつも整列して先生を待っている所に走って行きました。

 僕達は 若い女の先生に連れられて 教場に這入(はい)り 銘々の席に坐りました。僕は ジムがどんな顔をしてゐるか見たくってたまらなかったけれども、どうしてもそっちの方をふり向くことができませんでした。でも 僕のしたことを誰も氣のついた様子がないので、気味が悪いやうな安心したやうな心持ちでゐました。僕の大好きな若い女の先生の仰(おっしゃ)ることなんかは 耳にはいりははいっても なんのことだかちっともわかりませんでした。先生も時々不思議さうに僕の方を見てゐるやうでした。

 僕は 然(しか)し 先生の眼を見るのがその日に限ってなんだかいやでした。そんな風で 一時間がたちました。なんだか みんな 耳こすりでもしてゐるやうだと思ひながら 一時間がたちました。

 教場を出る鐘が鳴ったので 僕はほっと安心して溜息をつきました。けれども 先生が行ってしまふと、僕は僕の級(クラス)で一番大きな、そしてよく出来る生徒に
「ちょっとこっちにお出いで」と肱(ひじ)の所を掴かまれてゐました。僕の胸は、宿題をなまけたのに先生に名を指さされた時のやうに、思わずどきんと震へはじめました。けれども 僕は出来るだけ知らない振りをしてゐなければならないと思って、わざと平気な顔をしたつもりで、仕方なしに運動場(うんどうば)の隅に連れて行かれました。

「君はジムの絵具を持ってゐるだろう。ここに出し給たまへ。」
 さういって その生徒は僕の前に大きく拡げた手をつき出しました。さういわれると 僕はかへって心が落着いて、
「そんなもの、僕持ってやしない。」と、ついでたらめをいってしまひました。さうすると 三四人の友達と一緒に僕の側(かたわら)に来てゐたジムが、
「僕は 昼休みの前に ちゃんと絵具箱を調べておいたんだよ。一つも失くなってはゐなかったんだよ。そして 昼休みが済んだら 二つ失くなってゐたんだよ。そして 休みの時間に教場にゐたのは君だけぢゃないか」と少し言葉を震はしながら言いかへしました。

 僕はもう駄目だと思ふと 急に頭の中に血が流れこんで来て 顔が眞赤(まっか)になったようでした。すると 誰だったかそこに立ってゐた一人が いきなり僕のポッケットに手をさし込まうとしました。僕は一生懸命にさうはさせまいとしましたけれども、多勢に無勢で迚(とて)も叶ません。僕のポッケットの中からは、見る見るマーブル球(だま)(今のビー球のことです)や鉛のメンコなどと一緒に、二つの絵具のかたまりが掴み出されてしまいました。「それ見ろ」といわんばかりの顔をして、子供達は憎らしさうに僕の顔を睨みつけました。僕の體(からだ)はひとりでにぶるぶる震へて、眼の前が眞暗になるようでした。いいお天気なのに、みんな休時間を面白さうに遊び廻っているのに、僕だけは本當(ほんとう)に心からしおれてしまいました。あんなことをなぜしてしまったんだらう。取りかえしのつかないことになってしまった。もう僕は駄目だ。そんなに思ふと 弱虫だった僕は淋しく悲しくなって来て、しくしくと泣き出してしまひました。

 「泣いておどかしたって駄目だよ」と よく出来る大きな子が馬鹿にするやうな 憎みきったような声で言って、動くまいとする僕を みんなで寄ってたかって 二階に引張って行かうとしました。僕は 出来るだけ行くまいとしたけれども、たうたう(とうとう)力まかせに引きずられて、階子段(はしごだん)を登らせられてしまひました。そこに僕の好きな受持ちの先生の部屋があるのです。

 やがて その部屋の戸をジムがノックしました。ノックするとは はいってもいいかと戸をたたくことなのです。中からはやさしく「おはいり」といふ先生の声が聞えました。僕はその部屋にはいる時ほどいやだと思ったことは またとありません。

 何か書きものをしてゐた先生は どやどやとはいって来た僕達を見ると、少し驚いたやうでした。が、女の癖に男のように頸(くび)の所でぶつりと切った髪の毛を右の手で撫なであげながら、いつものとおりのやさしい顔をこちらに向けて、一寸(ちょっと)首をかしげただけで何の御用といふ風をしなさいました。さうすると よく出来る大きな子が前に出て、僕がジムの絵具を取ったことを委(くわ)しく先生に言ひつけました。先生は 少し曇った顔付きをして眞面目にみんなの顔や、半分泣きかかってゐる僕の顔を見くらべてゐなさいましたが、僕に「それは本當ですか」と 聞かれました。本當なんだけれども、僕がそんないやな奴やつだといふことを、どうしても僕の好きな先生に知られるのがつらかったのです。だから 僕は答へる代りに 本当に泣き出してしまひました。

 先生は 暫く僕を見つめてゐましたが、やがて 生徒達に向って 静かに「もういってもようございます」といって、みんなをかへしてしまわれました。生徒達は 少し物足らなさうに どやどやと下に降りていってしまひました。

 先生は少しの間なんとも言はずに、僕の方も向かずに、自分の手の爪を見つめてゐましたが、やがて静かに立って来て、僕の肩の所を抱きすくめるやうにして「絵具はもう返しましたか」と小さな聲(こへ)で仰(おっしゃ)いました。僕は 返したことをしっかり先生に知ってもらひたいので 深々と頷いて見せました。

「あなたは 自分のしたことを いやなことだったと思ってゐますか」

 もう一度 さう先生が静かに仰った時には、僕は もうたまりませんでした。ぶるぶると震えてしかたがない唇を、噛みしめても噛みしめても泣聲(なきごえ)が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう 先生に抱かれたまま 死んでしまひたいような心持ちになってしまひました。

「あなたはもう泣くんぢゃない。よく解ったら それでいいから 泣くのをやめませう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、私のこのお部屋にいらっしゃい。静かにしてここにいらっしゃい。私が教場から帰るまでここにいらっしゃいよ。いい。」と仰りながら 僕を長椅子に坐らせて、その時また勉強の鐘がなったので、机の上の書物を取り上げて、僕の方を見てゐられましたが、二階の窓まで高く這上った葡萄蔓(ぶどうづる)から、一房の西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけてゐた僕の膝の上にそれをおいて、静かに部屋を出て行きなさいました。

 一時(いちぢ)がやがやとやかましかった生徒達は みんな教場にはいって、急にしんとするほどあたりが静かになりました。僕は 淋くって淋くってしようがない程 悲しくなりました。あの位 好きな先生を苦しめたかと思ふと 僕は本當に悪いことをしてしまったと思ひました。葡萄などは迚(とて)も喰べる気になれないで いつまでも泣いてゐました。

 ふと 僕は 肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。僕は先生の部屋でいつの間にか泣寝入りをしてゐたと見えます。少し痩せて身長(せい)の高い先生は、笑顔を見せて僕を見おろしてゐられました。僕は 眠ったために氣分がよくなって 今まであったことは忘れてしまって、少し恥しさうに笑ひかえしながら、慌てて膝の上から辷(す)べり落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思ひ出して 笑ひも何も引込んでしまひました。

「そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もう みんなは帰ってしまいましたから、あなたもお帰りなさい。そして 明日はどんなことがあっても 學校に来なければいけませんよ。あなたの顔を見ないと 私は悲しく思ひますよ。屹度(きっと)ですよ。」

 さういって 先生は僕のカバンの中に そっと葡萄の房を入れて下さいました。僕は いつものように 海岸通りを、海を眺ながめたり船を眺めたりしながら、つまらなく家に帰りました。そして葡萄をおいしく喰べてしまひました。

 けれども 次の日が来ると 僕は 中々 学校に行く氣にはなれませんでした。お腹が痛くなればいいと思ったり、頭痛がすればいいと思ったりしたけれども、その日に限って虫歯一本痛みもしないのです。仕方なしに いやいやながら家は出ましたが、ぶらぶらと考へながら歩きました。どうしても學校の門をはいることは出来ないやうに思われたのです。けれども 先生の別れの時の言葉を思ひ出すと、僕は先生の顔だけは なんといっても見たくてしかたがありませんでした。僕が行かなかったら 先生は屹度(きっと)悲しく思はれるに違ひない。もう一度 先生のやさしい眼で見られたい。ただその一事(ひとこと)があるばかりで 僕は學校の門をくぐりました。

 そうしたら どうでせう、先ず 第一に待ち切ってゐたようにジムが飛んで来て、僕の手を握ってくれました。そして 昨日のことなんか忘れてしまったやうに、親切に 僕の手をひいて、どぎまぎしてゐる僕を 先生の部屋に連れて行くのです。僕はなんだか訳がわかりませんでした。學校に行ったら みんなが遠くの方から僕を見て「見ろ泥棒のうそつきの日本人が来た」とでも悪口をいふだろうと思っていたのに、こんな風にされると氣味が悪い程でした。

 二人の足音を聞きつけてか、先生はジムがノックしない前に戸を開けて下さいました。二人は部屋の中にはいりました。

 「ジム、あなたはいい子、よく私の言ったことがわかってくれましたね。ジムは もう あなたからあやまって貰はなくっても いいと言ってゐます。二人は 今からいいお友達になれば それでいいんです。二人とも 上手に握手をなさい。」と先生はにこにこしながら僕達を向い合せました。僕は でもあんまり勝手過ぎるようでもじもじしてゐますと、ジムはぶら下げてゐる僕の手をいそいそと引張り出して 堅く握ってくれました。僕は もうなんといってこの嬉しさを表せばいいのか分らないで、唯(ただ)恥しく笑ふ外ありませんでした。ジムも氣持よささうに、笑顔をしてゐました。先生は にこにこしながら僕に、

 「昨日の葡萄はおいしかったの。」と問はれました。僕は顔を眞赤(まっか)にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。

「そんなら 又あげませうね。」

 さういって、先生は眞白なリンネルの着物につつまれた體(からだ)を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、眞白い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏(はさみ)で眞中からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。眞白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗ってゐたその美しさを 僕は今でもはっきりと思ひ出すことが出来ます。

 僕は その時から 前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったやうです。

 それにしても  僕の大好きなあのいい先生は どこに行かれたでせう。もう二度とは遇(あ)えないと知りながら、僕は今でもあの先生がゐたらなあと思ひます。秋になると いつでも葡萄の房は紫色に色づいて 美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のやうな白い美しい手はどこにも見つかりません。

4.クラブハウスでの朗読

2023年3月1日 鈴木順子さんの朗読

2023年2月21日 おもにゃんさんによる朗読

2023年2月15日の小生の朗読

2023年2月15日 こもにゃんさんによる朗読

2023年2月12日 ひろさんによる朗読

2023年1月31日 鈴木順子さんによる朗読

5.参考文献等


(1) 横浜英和学院HPから「一房のぶどう」

(2) Wikipedia 「有島武郎」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E9%83%8E

(3) 「有島武郎『一房の葡萄』あらすじ解説 作者が学んだキリスト教の教訓」
「散文のわたぢ」

(4) 「有島武郎ー人とその小生つ世界ー」、上杉省和、明治書院(昭和60年4月25日発行)

(5) 【有島武郎】『一房の葡萄』のあらすじと内容解説・感想

「yuka」  「純文学を身近なものに」がモットーの社会人1年生。

(6) 「有島武郎とキリスト教」太田哲男 (聖学院大学で行われた日本ピューリタニズム学会での発表(2008年9月27日)をもとに加除をほどこしたもの)

https://obirin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1607&file_id=21&file_no=1

https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?