行政の長である内閣は科学、法律更に人心にも配慮した政治判断をするのだから柔軟な思考ができ人間力のあるモノしか本来やってはいけないのだ。

『現代社会は先端的な科学知識やそこから生み出される技術と、一般の人々の生活を切り離すことが難しくなっている。当然のことながら、政策決定にも高度な科学知識が要求される。一方、「民主制」とは、「ごく普通の人々」が政治を行うことを含意するものであり、国会議員一般が全て高度な科学知識を持っているわけではないし、(特に議院内閣制の場合)そこから選ばれる閣僚も、高度な科学知識を持っているとは限らない。そこで、多くの国では政治家ではなく科学者から選ばれる大統領補佐官ポストを置くなど、科学と民主制の橋渡しに努めてきた。しかし、日本は科学と政治の関係が未熟だ。科学者から選ばれた首相補佐官は置かれていないし、閣僚も政治経験の長さなどを根拠に与党の長老議員が務めるのが一般的であり、専門性はさほど考慮されない。したがって、政府中枢における意思決定に、科学が関与する余地が小さいだろうことは、外部の人間から見ても容易に想像がつく。その弊害は、コロナウイルス対策、とくに日本政府と専門家会議の関係にも現れている。ここで強調したいのは、まず制度設計がおかしいという話である。~都合の悪い助言は無視する一方、見通しが示せない時だけ「専門家の意見をよく聞いて決定したい」と言い抜けるのは政治家がよく使う手段だが、それが多用できるのは、責任規定の曖昧さも一因である。~しかし全体としてみれば、独立性や公開性を担保するのは行政側の仕事だ。専門家会議の独立性などが損なわれれば、結果として、科学的なアドバイスを委任された専門家がどんなに誠実に業務を遂行しても、(これから説明するように)多様な見解を吟味することと、何らかの結論を出すことという矛盾した役割の中で行き詰まることになる。民主国家にあっては後者の「結論を出す」役割は本来、政治が負うべきだが、その役割まであたかも科学者が持っているかのように演出されている。これは科学と公衆、政治の関係という観点において危機的な問題であるが、むしろ安倍政権は、自分たちの責任が曖昧になることを意図しているのではないかと勘繰りたくもなる。~では、そもそもなぜ独立性や公開性が重要なのだろうか。「そんなの当たり前だ」と思う方もいるかもしれないが、現在のように独立性や公開性が揺るがせにされているときには、その重要性を厳密に理解しておくことは重要だ。もし、反対する科学者の主張が科学ではないとすれば、それはおそらく党派的な意図に基づいた発言ということになるだろう。しかし、この推論は正しいだろうか?実際は、科学者の見解は、全ての科学者が誠実に、かつその持てる知識と能力を全て投入したとしても、未来のことが完全に予測できるわけではない。これは一見当たり前のことだが、政策立案プロセスにおいて、しばしば忘れられてしまう。加えて、科学者は必ずしも誠実ではない(自分の関係する会社の利益のためとか、あるいは単に自分が名声を得たいために、意識的にか無意識にか、事実を歪めるものはどんな世界にも存在する)。そしてもちろん、科学者もミスを犯す。そのため、科学者は常に「科学者の集まりによる集合的な検証」を重んじてきた。これを、20世紀米国を代表する社会学者ロバート・マートンは「組織された懐疑主義」(Organized Skepticism)と呼んだ。「組織された」という言葉が示すとおり、なんでもかんでも疑えば良いというものではなく、科学者はその仲間内で認められた数学的、論理学的手法を使って、仲間の主張の弱点をつこうと、常に狙っているのである。こうして、科学者の世界は、常にお互いに勝負を挑む、ちょっとした(何度も言うがルールに則った)西部劇の様相を呈する。ルールから逸脱した攻撃は認められない一方で、多くの科学者が認めている同僚の見解に対して、ルールに沿った上で効果的な一撃を加えることができれば称賛されるのである。したがって、注目を集める科学的な見解や理論は常に攻撃に晒されることになる。では、いつこれらの理論は「真理」とみなされることになるのだろう。万有引力の法則や遺伝子の仕組み等、「ほぼ真理である」とみなされている科学理論は多々あるが、これらは基本的に「長年、数多くの同僚科学者による挑戦を受けて、それでも生き残ってきた理論」である。科学哲学者と呼ばれる人たちは「どういう理論が長年の攻撃に耐えてチャンピオンになるか」をなんとか突き止めようとしてきたが、残念ながらこの試みは現代に至るまで、ほぼ成功していない。今のところは「生き残った理論が生き残った」としか言えないのである。一方、新型コロナウィルス感染症に関する知識は、当然のことながら大半がまだ研究の最中にある。インターネット時代の利点を生かし、この「世界の危機」に対して毎日のように科学者たちによって膨大な論文が書かれ、回覧される。そのいずれも、基本的には「決定的な知識」とは言い難い。言い方を変えれば「新型コロナウィルスに関する知識は、まだ不確実性が高い」のであり、その性質や今後の見通しに関して、科学者の間で意見が異なるのは、むしろ当たり前である、ということになる。ところが、政策を決定する際には「とりあえずの現状認識」を確定しなければならない。例えば、COVID-19のような感染症であれば基本再生産数であるとか、感染した場合の死亡率であるとか、対応可能な病床数であるとか、いくらかければそれらを増強できるかとか、そういったことがわからなければ、きちんとした政策は決められない。そこで、最も「それらしい」数をもとに、政策を決定するのが行政の役割である。しかし一方で、この「とりあえずの現状認識」が間違っているかもしれず、それはそれで検証されなければいけない。「とりあえずの現状認識」が間違っている可能性が高まれば、政策をプランBに移す必要が出てくるかもしれない。「政府に対する科学的アドバイス」は、この科学の不確実性や、それに起因する科学者間の意見の違いを含んだものでなければいけない。~科学の知見が決定的に重要となる政策を展開する場合、行政は判断の科学的な根拠を示して「とりあえずの現状認識」を確定しつつも、不確実性を考慮に入れ、それをカバーするための多様性を担保することが必要となるわけだ。だからこそ、どこからが科学者の意見でどこからが行政の判断なのかを切り分ける必要があるし(独立性)、適切な検証を行うためにも根拠となる科学的知見を公開する必要がある(透明性・公開性)。それゆえ、(英国の原則が示すように)科学的アドバイスには政府からの独立性と透明性、公開性が必要なのである。しかし、冒頭で述べたとおり、現在の専門家会議は役割が不明確であり、行政との距離が近すぎ、科学的な知見の多様性に対する公開性に欠けている。この問題を踏まえて、それらを担保できるような形に制度を設計し直すことが必要であろう。』

科学的根拠とはあくまでも現時点での有力なデータでしかないのであってそれを元に国民を動かす為の政策は行政の一番重要な仕事だ。行政の長である内閣は科学、法律更に人心にも配慮した政治判断をするのだから柔軟な思考ができ人間力のあるモノしか本来やってはいけないのだ。

新型コロナ、安倍政権と専門家会議の「いびつな関係」
独立性・公開性が保たれていない…
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72501

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