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今は情報の取捨選択の方法を教養として身に着ける必要があるのです。

『本来、人間は「互いに違う」ということを前提に、違うからこそお互いに協力し、異なる能力を合わせながら、一人一人の力ではなし得ないことを実現してきました。そのために、人間は他者とのつながりを拡大するようにして進化してきたわけです。人間同士が尊重し合うことの前提にあるのは、相手を100%理解することではなく、「相手のことはわからない」という認識です。わからないからこそ知りたいと思うわけで、極端なことをいえば、わかってしまったら、もう知る必要はありません。自分と同じようにできていて、自分と同じ心をもっていると思えば、何もその人と付き合う必要はなく、自分だけを拡張していけばいいからです。しかし、ICT(Information and Communication Technology/情報通信技術)やAI(Artificial Intelligence/人工知能)は、個人を拡張する方向に進んでいて、異なるもの同士がつながり合って新しいことを生み出すことを目指していないように思います。インターネットは、「同じである」ことを前提として付き合うバーチャルな空間です。相手も自分も同じように行動することを前提につながっている。生身の触れ合いより、ネット上の世界に重きを置いていると、人間同士の付き合いが、「お互いに違う」ことを前提としているということがわからなくなります。スマホなど、非常に便利と思われるコミュニケーションツールによって、本来違うはずの人間が均質化する方向に誘導されている。これが、現代に闇をもたらしている正体ではないでしょうか。人間はどんどん分析的になり、すべてを情報化しなくては気が済まなくなりました。人間は、感じたことで衝動づけられたり助け合ったりします。あるいは、食卓を囲んで楽しい思いをしたり、踊って興奮したりする。こうした感性の部分は情報化できません。たとえ情報を還元したところで、表面的な情報にしかならないでしょう。そして今、「わかろうとすることがわからないことにつながる」という矛盾が生じています。情報化するということは、わからないことを無視するということです。それは、隠されているものを捨てていく作業だからです。人間は情報化することで逆にバカになってしまいました。共感というのは「相手の気持ちがわかる」ことです。それを、「相手を理解すること」だと誤解している人たちが、多いように思います。相手を「理解」するのではなく、ただ「了解」することが、互いの信頼関係を育んだり、好きになったりする架け橋になるということがわからない。さらには、他者の自分に対する感情や、他者に対する自分の感情が、「好き」という言葉で表される感情に匹敵するものかどうなのかも判断できないのです。その不安が、身近な人への過度なこだわりや要求となり、それがいじめや嫉妬、暴力につながっているのではないでしょうか。実際には生み出されていない信頼を、一番近くにいる仲間に過剰に求めるがゆえに起きている不幸な事件も多いのではないかと思います。~しかし、中心がないから入りやすく抜けやすいというネットワークの利便性は、中心がないからリーダーができずに意見を集約できず、すぐに炎上するという欠点にもなります。誰もがリーダーになることができるし、誰もが誰かをリーダーにさせないことができる。そうすると、結局何も行動に移せないまま、バーチャルな空間に点として浮かんでいるだけになってしまいます。他者とつながっている感覚も失われていきます。利便性を追求すればするほど自分の自由度は増すかもしれませんが、自分がこれからしようとしている行動を誰も見守っていないし、期待もしていない。そんな状況に陥る可能性もあります。こういう時代は、確信がもちにくく、自分というものがわからなくなります。特に子ども時代に「自分は世界に受け入れられている」という思いを抱けなかった人ほど、インターネット上で必死に自己実現を図ろうとしています。フェイスブックで「いいね!」を押してもらおうと、荒っぽいことをするのもそのためでしょう。自分やがっていることを他者に認めてもらいたい、注目してもらいたいと思うからです。自分というストーリーの中で生きようとすれば、他者を巻き込まなければ完結しません。だから、他者を強引に自分のストーリーの中に入れることのできるインターネットは都合がいいのです。自分本位のインターネットの世界は、言葉を手に入れ、フィクションの中で生きるようになった人間が行き着いた場所です。人間は、フィクションによって自分を認めてもらう方式をつくり出したわけです。そうして、フェイスブックやライン、ツイッターを駆使して、どこかで他人とつながろうとする。でも、身体のつながりなくして、本当につながることはできません。自分のやっていることを他者に認めてもらいたい、注目してもらいたいという願望をもち続けてきたからこそ、人間はその進化の過程で付き合う仲間の数を増やそうとしてきました。しかし、第1回で述べたように、真につながれる数は150人のまま増やせてはいないのです。今後、技術が進歩して、インターネットを通じて身体がつなぎ合わされている感覚を何らかの手段でつくることができれば、それはすごいことだと思います。でも今のところ、それは望めそうにありません。』

ヒトが集団として認識できる人数が150人前後なのは実感としてあります。デジタルネイティブなヒトビトがアナログな人体と精神が乖離してしまうのは処理しきれない情報をインプットしているからでしょう。今は情報の取捨選択の方法を教養として身に着ける必要があるのです。

京大総長が恐れを感じる、SNS時代の「いいね!」の正体
スマホを捨てたい子どもたち③承認欲求
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73392

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