平和ボケは罪な症状だ。

『「自己責任ではないから社会全体で損失を負った当人を救うべきだ」という言説は一見美しく見えるものの、「自己責任」の線引きによっては残酷な結果やシステムの破綻をもたらす。リストラのせいで失業した人がいたとして、その人が不況(つまり自己責任ではないもの)だから失業したのか、自身の能力不足(つまり自己責任)により失業したのかはっきりさせるのは難しい。後者の「自身の能力不足」でさえも、能力不足の原因は教育の不平等、さらにはその前提となる家庭環境によるものかもしれず、それを本人の責任としていいかは難しい。だからと言って、何もかもを自己責任ではないと見なせば、社会のセーフティネットは容易に崩壊してしまう。決定が容易ではない「自己責任」とそうではないものの境界線はしばしば世論と政治的なもので決定される。大学入試の日に風邪をひいて試験が受けられないのは通常自己責任として扱われる。それは風邪をひくリスクを事前に避けるのは受験者の自己責任と考えられているからだ。これと同じ論理を適用すると、新型コロナウイルスなどの不測の事態によって損失が出て生活に影響が出たとしても、そのリスクを貯金や保険などで事前に抑えておかなかった当人に責任があるということになる。逆に言えば、新型コロナウイルスによる損失を自己責任としないのであれば、風邪で受験できないのも自己責任ではないという考え方もできる。筆者はどの考え方が正しいと言おうとしているわけではない。これまで議論してきたことは「政府の責任」、「社会全体で共有すべき損失」、「自己責任」という政府、社会全体、個々人が引き受けるべきもののラインをどう引くのかという話だ。それらのラインをどう引くかによって、当然政府が店舗の閉鎖によって損失を受けた人に何をどのように提供すべきかが変わってくる。これらは事実判断ではなく価値判断であり、当然答えはない。これらは、それぞれの社会の中での様々な政治的交渉によって合意形成が図られていくものだ。今目の前の生活に困窮している人々の前でこんな議論を悠長にすることはできないだろう。しかし、これらの責任の分担をどう定義するのかによって、その社会の長期的あり方は大きく変わっていく。その社会のあり方を考える上でこの議論は非常に重要なのだ。~今回の「自粛と補償はセット」というのは決して店舗閉鎖など直接損失を負っている人々だけに関係する話ではない。研究者の間では個人、政府、社会が責任をそれぞれどの程度の負うべきかこれまで多く議論されてきたが、より開かれた議論が行われるべきだ。「政府の責任」、「自己責任」、「社会全体で共有すべき損失」は社会に生きる誰もに関係する話であり、一人ひとりの主張が社会全体の考え方につながり、最終的には政策にも影響していく。新型コロナウイルス流行を政府がどのような役割を果たすべきなのか、そしてどのような役割を果たしてこなかったのかを考える一つの機会としたい。』

『「自粛と補償はセット」論争は誰もに関係する「政府の責任」「自己責任」「社会全体で共有すべき損失」』をヒノトモのヒトビトが真に実感するには残念だが「日本で暮らす全てのヒトビトが新型コロナウイルスによって悲惨な状況に成った時」なのだろう。平和ボケは罪な症状だ。

新型コロナ「自粛と補償はセット」であるべきなのか?
中国と香港から考える政府と社会の責任分配https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71992

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?