【エッセイ】32歳クライシス~小笠原逃亡記③
「いつまで滞在ですか?」
浜でぼんやり海を眺めていたら、女の子に声をかけられた。原宿のサンドイッチ屋さんに勤めている20代の女性だった。
「えっと…… 別に、決めてません」
「そうですか。この島はそういう人が多いんですよ」
彼女も、一人旅だった。翌日、彼女が滞在しているペンションに移った。こちらは女性の宿泊客も多く、二段ベッドの大部屋でも心安く過ごすことが出来た。知り合う人たちは、ほとんど一人でこの島まで来ているという。いつの間にか友人が増え、夜通しとりとめもないことを語り合った。毎日、どこかの浜辺に出向いて泳いだ。野生のイルカに囲まれて波を漂い、無人島を探検した。沈む夕日を飽くこともなく眺め、日が暮れると暗闇の中で満天の星空に流れ星を数えた。
私は、歩き方を憶えたばかりの子どものように、目を止めるものに立ち止まり、耳を澄まして風を追いかけた。戯れること、遊ぶこと。こんな当たり前の喜びを、なぜ今までしてこなかったのだろう。普通に呼吸する、普通に歩く、普通に生きる。ただ、それだけのことだったのに。太陽の光が、真っ直ぐに私の中に入ってくる。
それは私が物心ついて初めての、宿題のない夏休みだった。
島に降り立ってから1ヶ月。
私が抱え込んでいた数々の症状は、全て跡形もなく消えた。歯茎から出血することはなくなり、不意打ちで襲われる身体の痛みも、不安も、喘息の発作ももうない。そうか。原因は溜め込み過ぎた疲労と得体の知れないストレスってものだったのか。そんなことで人間は病気になってしまうのだと、初めて知った。
歌の仕事は辞めてしまったけれど、もしもご縁があるならば、いつかまた歌える日が戻って来るだろう。それくらい、気楽に考えられるようになっていた。私は立ち止まり逃亡したことで命を救われ、本来の自分を取り戻すことが出来たのだ。
ある日、島の人に誘われて無人島に渡った。夜明け。轟々と風が吹く中、大空を大河のように雲が流れ、月が沈み星が瞬き太陽が昇る瞬間を見た。海と大地と宇宙のシンフォニー。そこに私が一人でたたずんでいた。
「全てはここにある。何も心配はいらない」
誰かの声が、聴こえたような気がした。
秋も深まるころに貯金が底を突き、私は小笠原に別れを告げることにした。
小笠原丸の出航時、去り行く小笠原丸をたくさんの島の船が追いかけて別れを惜しむ。私も何度も船に乗り、去り行く船を追いかけて手を振った。そして今度は、私が去る。私は誰にともなく、大きく手を振りながら「さよなら~!」と何度も叫び、心ゆくまで泣き続けた。
小笠原は、疲れ切った私がたどり着いた天国の島。人間は自然と切り離されたままでは、けっして幸福に生きることはできないと教えてくれた。
私は、擦り切れて苦しんでいる人にささやくことがある。
「逃げなよ。小笠原、おすすめだよ」と。
歌は、ゆっくりとしたぺースで私の元に戻り、小笠原から戻った3ヵ月後、私はひとりの人と出会い結婚し家族になった。
あれから、28年の月日が流れた。
小笠原は思いのほか遠く、再び訪ねることはまだ出来ないでいる。だが、島の輝きは今も私の中に生きている。
どんなに逃げても、悲しみや辛いことはやって来る。どうすることも出来ない痛みに襲われ、迷いは雲のように湧き上がる。そんな時、私の心は小笠原に飛ぶ。
どんなに辛くても、なんとかなるさ。
世界は全て、あの紺碧の海につながっているのだから。
(了)
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