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【エッセイ】銀巴里*昭和の光とおさまりの悪い私のこと ①

 東京、銀座七丁目花椿通りの雑居ビル前に銀巴里跡という石碑がある。この場所には、かつて「銀巴里(ぎんぱり)」という名のシャンソン喫茶があった。 

銀巴里跡 石碑

 銀巴里の開店は、終戦から六年後の昭和二十六年(1951年)。
 バンドの生演奏と本格的なシャンソンが聴ける、日本初のライブハウスとして名を馳せ、美輪明宏さん、戸川昌子さん、金子由香利さん、平野レミさん、クミコさんら、たくさんの歌手が出演していた。
 また客席も華やかで、三島由紀夫さん、川端康成さん、野坂昭如さん、吉行淳之介さん、なかにし礼さんなど文化人や芸術家が常連客として集い、坂本龍一さんが芸大の学生だった頃、ピアノ伴奏のアルバイトをしていたという逸話もある。
                      
 戦後の色彩の乏しい時代に華やかな色を与え、高度成長期に大人の社交場として発展した銀巴里は、平成2年(1990年)12月29日、その39年の歴史に幕を降ろした。ラストステージは美輪明宏さん。店内に入りきれない人々が長蛇の列を作って終演を惜しみ、翌日の新聞の一面には、歌う美輪さんの写真と共にこの見出しが掲げられた。 

 『銀巴里閉店・昭和の光がまた消えた』 

 銀巴里が閉店する数年前のこと。
 私は一向に芽が出ない役者志望の若者だった。オーデションは全敗。心も生活も荒み切っていた頃に、通っていた俳優養成所で「鬼」の異名を持つボイストレーナーと出会った。クサっている私に、鬼は言った。

お前が賭けて来た芝居、全て捨てる勇気があるなら、歌、やってみる?」 

 そもそも、宝塚に憧れて16歳で声楽と日舞とバレエを始めた。二度の宝塚受験で撃沈はしたものの、どうしても芝居がしたくて、映画がつくりたくて、親の反対を押し切って上京して来たのだ。勝新太郎先生について地方巡業の舞台にも立ったんだぞ。そんな私に、芝居を捨てろと? 二者択一にしろと? 「どっちもじゃ、ダメ?」と揺れる私の気持ちを見透かすように、鬼は凄んだ。
「甘くねぇからな、歌は」と。

 その夜から私は高熱を出し、一週間ほど寝込んだ。結局、目指した場所のどこにもおさまることができない私。他に行く当てなんてないじゃないか。私はユラリと起き上がると、真剣勝負に向かうサムライの心持ちで鬼の門を叩いた。23歳の時だった。

「えっ? ホントに捨てるの? 参ったなぁ」
 青白い顔で玄関先に立つ私を見た鬼は、真っ先にそう思ったそうだ。鬼はオーデション番組「スター誕生」の合格者レッスンにも関わっていて、超多忙な日々。半ば断るつもりで提案したら、気負ってやって来たので驚いたとずっと後になって聞かされた。発熱の一週間を返せ。
 だが、一度引き受けたからには鬼の手加減一切無し。演歌・歌謡曲・ポップス・JAZZを千本ノックのように片っ端から歌わされ、「下手くそ!」と怒鳴られ、譜面や消しゴムを投げつけられ、私のお粗末なプライドなど木っ端みじんに砕かれた。
 瞬く間に二年が過ぎ、私はようやく悟った。無理だ。私は役者にも歌手にもなれない。もう諦めて広島へ帰ろう。そう決めた日だった。

お前、シャンソンって知ってる?」 

 唐突に鬼から問われた。
「知りません」
 虚ろな目で答えると、鬼は冒険ごっこをしている子どもみたいに、クルクルした目で言った。

ならば、銀座に銀巴里という面白い店がある。芝居と音楽が融合した世界だ。行ってこい!
 
 芝居、捨てろって言ったよね。何よ今さら。という反抗心すらわかなくなっていた私は、取り合えず「へい」と気の抜けた返事をして、不貞腐れた足取りで銀座に向かった。

銀巴里

 雑居ビルの前で、「銀巴里」の看板を見上げた。地の底からバンドの演奏と微かな歌声が聴こえてくる。なんとなく、怖い。だけど、もう終わりだ。故郷への土産話のひとつにできればいいかと、狭い階段をソロリソロリと降りた。銀巴里の扉を開く。コーヒーの香りと、輪郭を立ち上がらせた歌声が一気に外の世界に溢れ出してきた。
「何、これ?」
 薄ぼんやりとした灯りの下で受付らしき年配の女性が、黙ってメニューを差し出している。ここで飲み物を注文するらしい。コーヒーと書かれた文字を指差して1500円を支払う。チケットを受け取り店内に入ると、息をのんだ。
 ベンチシートが並ぶ薄暗い客席は、ほぼ満席。その向こう側に光り輝いている場所がある。ステージだ。客席とステージが同じ高さ。そして近い。ピアノ・ギター・ベース・ドラムの生演奏で美しい人が歌っている。圧倒的な歌唱力。テレビからもラジオからも流れてこない歌。初めて聴く歌。身体が震えてきて、膝から崩れ落ちそうになった。
「何、これ? 何なの、これ?」 
 ウエイターに案内されて、ベンチシートの一番後ろの空席におずおずと腰掛ける。
 ステージ横の「本日の出演者」の表に、しますえよしおさん、渡辺歌子さん、伊東はじめさん、高橋久美子(現・クミコ)さんの名前が並ぶ。次々に登場する歌い手の歌声と表現力に度肝を抜かれた。
「芝居と歌を融合させた世界」
 と言った鬼、いや師匠の声が蘇ってきた。音を立てるような勢いで涙がこぼれ落ちる。脱走兵の歌、娼婦の歌、歓びの歌、後悔の歌、人生の歌…… 
 原曲はフランス語らしいが、全て日本語で歌っている。言葉が美しい。耳馴染みのあるミュージカルとも洋楽とも違う、初めて触れるジャンルの歌。涙が止まらない。

 一杯のコーヒーで終演まで粘り、店を飛び出しすぐさま道端の公衆電話から師匠の家に電話をかけた。声が震えた。
先生、私、銀巴里に出たい! 銀巴里で歌いたい!
 耳元に聴こえて来た師匠の声は、待ってましたとばかりに弾んでいた。

よし! お前はシャンソンの世界に嫁に出す。二度と帰ってくるな!」  
はい!」 

 二人とも勢いは良かったが、考えてみるとシャンソンのレパートリーなど一曲もない。そこで師匠は、知人が経営するシャンソニエ(シャンソンのライブハウス)に、私を雇うように交渉してくれた。

シャンソン界の流儀もあるだろう。ここから先は、お前次第だ

 急ごしらえでシャンソンの譜面を二~三曲用意し、銀座のシャンソニエに出向いた。レンガ造りの穴倉のような雰囲気の店に入ると、若手の歌手らしき人が三人いて開店準備をしていた。名前を告げると、店の奥の暗がりから、ロートレックのポスターに登場しそうな女性が表れた。
「あら。何か、ご用?」
 猫なで声だ。かなり芝居がかっている。湿度の高いモノクロの映画みたいだと思った。この女性が、この店のオーナー兼女性歌手なのだろう。訪ねて来た理由を説明すると、突然女性の声が一オクターブ低くなった。

「話しになんないねぇ、帰んな!」
「えっ、でも」
「一曲もレパートリーがなくて、どの面下げて来てんの?」
「あ、いえ、越路吹雪さんの歌なら」
「は? 私に聞けっての? 帰れっ!」

 大声で怒鳴られた。どうして私は、どこでもおさまりが悪いのだろう。ひと声も聴いてもらえないまま、消え入るような声で「すみませんでした」と言って店を出ようとした。「え? 紹介するんですか?」と誰かの声が背中越しに聞こえた。
「ほら、これ」
 オーナーから呼び止められ、メモ書きを渡された。女性の名前と電話番号が書いてある。
「この先生に話付けとくから、やる気があるなら、レッスンして来な」

 

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