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【エッセイ】銀巴里*昭和の光とおさまりの悪い私のこと ③

若い人はね、良い光をたくさん浴びて仕事をしなさい」  
 銀巴里の楽屋でそう話しかけてくださったのは、七十代のベテラン歌手。
ジェンダーを超越された存在で「納涼お化け大会にようこそ」と言ってステージに立ち、話術の巧みさでお客様を爆笑させ、凄みのある少し悲し気な歌声で魅了していた。

 平野レミさんは、おしゃべりが始まると、止まらない。「そろそろ歌わなきゃね」とバンドに向かってカウントを取り始め「ワン、ツー、ワンツースリーフォー」の後で、「ファイブシックスセブンエイト、あら?」とカウントを間違えて全員でズッコケる、ドリフターズのコントのような失敗を大真面目にしていた。

 そして銀巴里の最大の功労者は、美輪明宏さんだ。私にとって、先輩とお呼びすることすら恐れ多くて出来ない、それこそ雲上人。お側に近付くこともはばかれたので、美輪さんが出演される日は、いつも客席後ろにある厨房の隙間から、息を殺してお姿を拝見していた。 

 そんなある日、私は銀巴里とはまったく別の場所で、美輪さんとお会いする機会を得た。私の知人が企画したイベントに、美輪さんがゲスト出演することになり、私は舞台裏のスタッフとして駆り出されたのだ。
「あ! 真実ちゃん、ちょっとこっちに来て」
  知人は、私をイベント会場の控室に案内して扉を開いた。
「美輪さん、この子ね、銀巴里で歌ってるんだって」
 え? 嘘でしょ。高校生じゃあるまいし、その軽い声かけは何? 
 開け放たれた扉の奥を見ると、雲上人の美輪さんがおられた。椅子に腰かけて、私を見ている。黒TシャツにGパン、スニーカーで汗だくの私を、美輪さんが見ておられる。仰天した。ど、ど、どうすれば良いんですか、私! 振り向いたが、知人の姿は消えていた。

「よっ、よろしくお願い致します!」
 私は慌てて名乗り、深々と頭を下げた。美輪さんは優雅に、しかもすっと気高く立ち上がられた。そして、ゆったりと微笑んで一言。

美輪明宏でございます。どうぞよろしくお願い致します

 菩薩。
 あの独特のお声が天から降り注がれて来る。思わず息をのんだ。私を見て優しく微笑んだ美輪さんは、ご挨拶のあと、ダンスを踊るように丁寧に美しく頭を下げてくださったのだ。 

 それ以降の記憶が、ない。  
 たぶん、もう二言三言お話をして下さったような気もするが、本当に何も憶えていない。当時二十代の小娘に、しかも銀巴里出たてのペーペーの新人歌手… かどうかもわからない存在に、雲上人が深々と頭を下げて下さった。そのことが、ある意味ショックで記憶がとんでいる。優れたプロフェッショナルは、人間としての器も、強さも、厳しさも、美しさも桁外れだ。そして身を持って、本当の挨拶とはこういうものだと私に教えて下さった。  

 こうして魅力的な先輩方を、一番下の立ち位置から仰ぎ見ることができたのは、本当にありがたい経験だった。新人を見るといびる、無視する、威嚇するという行動をとる人もいたけれど、私の中に「目の前の人を楽しませる」エンターテインメントの土台が育まれ、「人に配慮し尊重する」ことを指針にしようと気付けたのは、間違いなく歌う仕事に携わってからだった。

 銀巴里の正式デビューが決まった翌年、昭和天皇が崩御され元号が昭和から平成に変わった。歌舞音曲は控えるようにとのお達しで、銀巴里も数多あるシャンソニエも軒並み休業し弔意を示した。
 
 ひとつの時代が終わってしまった。
 
 銀座のシャンソニエの出演は5年目を迎えていた。いつの間にかオーナーの秘蔵っ子のような立場となり、オーナーの側にいることが多くなっていた。だが私は、役割を逸脱しないよう距離を取りながら、オーナーには一切内緒で、憧れていた先輩カンツォーネ歌手の門下生となり、民族楽器の奏者たちとバンドを組み、オリジナル楽曲を制作し、渋谷ジァンジァンという小劇場で、前衛的なライブを続けていた。
 
「芝居」と「音楽」が重なり合い溶け合ったところが「シャンソン(歌)」

 私の「歌」を歌いたい。
 私の「世界」を表現したいと強く思うようになっていた。

 元号が平成に変わった年、私は一通の手紙を受け取った。差出人は銀巴里の社長。銀巴里の閉店が決まったという知らせだった。

 地価の高騰などにより存続が不可能になったという噂は耳にしていた。もしかしたらと思っていたけれど、やはり閉店は事実だった。
 私の銀巴里レギュラー出演の日々は、わずか二年で終わった。せっかくおさまれたと思ったのに、その場所はあっけなく壊れてしまった。私がカチリとおさまる場所は、どこにもない。
 
 年末。銀巴里のさよならパーティーが銀座のレストランで盛大に行われた。銀巴里に縁あるミュージシャンやたくさんの歌手が一堂に会した夢のような空間で、美輪明宏さんは声を上げて泣いていらした。
 私のカンツォーネの師匠は、最も新参者の私を、美輪明宏さんや金子由香利さんなどお歴々のところに連れて行き
「この子、浜田真実と申します。今後ともどうぞよろしくお願い致します」
とひとりひとりに頭を下げてご紹介くださった。ご自身も銀巴里の花形スターだっにも関わらず。
 素晴らしい歌手だった師匠は、その4年後に旅立たれた。何もご恩返しが出来ないまま、お別れしてしまった。

 ありがたいことに、私は時代の狭間で、良い光をたくさん浴びて仕事をすることができた。昭和の光の中で私は歌い、昭和の残照を見送った。
 かけがえのない経験に導いてくださった、師匠方。歌う場を与えてくださった今は亡きオーナー、拙い歌を聞いてくださった皆様、本当にありがとうございました。

 銀巴里の閉店から32年の歳月が過ぎた。平成も終わり、令和の時代を私は生きている。
「歌、やめないでね」
 そう言ってくださったカンツォーネの師匠に背き、私はステージから降りてしまった。

 銀座の街を歩く。すっかり大人になった娘とふたりで歩く。
「ここ、ここに昔、銀巴里があった」
 銀巴里跡の石碑にそっと手で触れてみる。冷たくて、どこか遠い。小さな墓石のようだと思う。
「あ、母さんが昔、歌ってた店?」
「そう。このビルの地下」
「ふ~ん」
 興味はなさそうだ。
「あなたが生れる10年前に閉店したからね」
 娘は声を出さず、コクンとうなずいてこの話は終わった。昔のこと。遠く過ぎ去った日々のことだ。

 緑色の看板があったあたりを見上げて、耳を澄ましてみる。
 あの頃の歌声は、もう聴こえない。

(了)


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