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家畜の安寧、虚偽の繁栄

今から3年前、コロナが2年目を迎え、ちょうどワクチン接種がはじまった頃、コロナによる直接的な原因で亡くなる人の数より、この茶番に振り回され困窮し、自死する人の数が多いのでは?という言説が流れていた。私も同意見だった。その時にしたためた文章を見つけたので、少し長いが以下転載。

コロナ禍で増えたもののひとつに自殺者の数がある。発表された数字の捉え方はまちまちだが、学生や、女性、老人など、目立つのは社会的弱者と呼ばれる人達の不遇な人生の屍である。この20年で日本国内においても貧富の差が拡大しており、具合いの悪いことに、苦難に喘ぐ人は世間に対し不満を叫ぶことすらままならないほどに、追い詰められている。結果、そのような人たちはもともと存在しなかったかのように社会的なネグレクトを受け、最終的に死に至る。コロナの影響を受けにくい業種で、しかも大企業の社員であれば、その変化を肌で感じることは難しいであろうと思う。しかし、ほぼそうした死に直面するくらいの危機的な状況に陥っている人は確実に増えている。私たちはその存在を認識することもなく、安定した日々の暮らしを謳歌する。今の自分の安寧をかなぐり捨てて、困窮する人々の暮らしに寄り添えるかと問われれば答えはNoなのだが、そこに気がついている自分としては、だまって見て見ぬふりを決め込むことに後ろめたさを感じている。仕事に忙殺されると、そんなことはすっかり忘れて、あたかも自分が悲劇の主人公にでもなったかのように、まわりの少しだけ優遇されている人と比較した自分の境遇に、やさぐれた気持ちになる。そんな時もある。それはバカバカしく、自分も所詮、卑しい低俗な人間だと情けない気持ちになり、自戒するのだが、大局を見ることが出来なくなった時は、自分が生きているごく狭い世界の中でしかモノを考えることができなくなる。先日、たまたま昔のブログの原稿を目にした。2010年の9月、ちょうど会社を辞める決断をした頃のものだった。当時連載が始まり人気が出始めたあたりの進撃の巨人について述べた文章である。以下。

作品で設定された人類の生きる舞台は、50mもの高い塀に囲まれた閉ざされたフィールド。この中で100年もの間生活してきた人類は平和ボケに陥り、塀の外に出て行こうとする人間を異端扱いする。そんなぬるい世界を一掃すべく、ある日突然、50mを越す大巨人がこの塀を破壊し、死と隣り合わせの絶望的な人類の生き残りがはじまる。というのが物語りの序盤。
 主人公のエレンは平和ボケの社会の中、塀の外に出ることを望んでいた。「安全に暮らしていけるけど、ただ生きているだけ、それなら家畜と同じじゃないか」と言って。

 翻って考えよう。安心・安全であることが最も正しく優先されるべきことという風潮がある今の世の中。教育の現場では学校の畑で生徒が自分たちで育てて収穫した野菜を食べることができないケースがある。ビジネスの現場では利益をしっかり確保できるという保証がもてない危険な仕事は最初から請けない、という企業が増えてきている。リスクを管理する、と言えば聞こえはいいが、リスクを負わない確実で安全な社会がユートピアだと、いつのまにか我々は洗脳されている。そうなのだ。この社会で暮らすわたしたちはすでに「家畜」になっているのだ。

 この作品への多くのコメントが、巨人に怯える社会を「どうしようもない絶望の世界」と捉えていたが、私の解釈は真逆。死と隣り合わせだからこそ危険を冒す勇気を持てるし、生きるために戦う意思を持てる。人が「家畜」ではなく「人間」たらしめるには、もっと勇気を持って塀の外に飛び出していかなければならない、そのようにこの物語は訴えている、と勝手に解釈をしてみた。

以上。
今は会社を辞めることは考えてはいない。老いてズルくなった私は、会社にいながら、どうやって、このぬるい世界を抜けて、より生を感じる、厳しくて、楽しい世界と向き合うことができるか、そういうことを真面目に考えている。

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