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「底辺」は決して悪い意味じゃない

私が好きなYoutuberの中に、「Fラン大学就職チャンネル」があります。Fラン大学のことを見るなんて...と思う方もいるかもしれませんが、本チャンネルで投稿されている動画の数々は、Fラン大学生のみならず、全ての人が感銘を受けるべき教訓で溢れています。もし初めて聞いたというのであれば、例えFラン大学出身の方ではないとしても、自分を律するために一度は視聴することを強くおすすめします。

今回その中でも私が感銘を受けた動画として、「危険人物更生法」があります。短編のシリーズなので、時間がない方でも気軽に視聴できるものとなっています。リンクはこちらに添付しておきます。

さて、本動画のあらすじですが、主人公である30代DVニートが突然「危険人物更生施設」に送られ、自分と同様の「クズ」と共に「無意味な」競争を強いられます。そのような「無意味な」競争を繰り返す中で、主人公が新たな気づきに目覚めるのですが、これを見て私は「底辺」という言葉の意味を考えさせられました。

昨今の世の中では「底辺」という言葉はほぼ「クズ」と同意義であり、世間からは煙たがられるものとなっています。確かに、「底辺」に望んでなりたい人などほとんどいないでしょう。しかし、本来は「底辺」の定義は「クズ」という人間のカテゴリーにとどまらず、広範で深いものであります。そして、私たちはこの本来の定義に、すなわち「誰もが忌諱する奈落の底」という定義に回帰するべきだと考えます。なぜなら本来の定義である「誰もが忌諱する奈落の底」を体験するときが、「自分自身が改心する最高の瞬間」でありうるのであり、それが人間にとって根本的な経験であるからです。つまり、最も強い光は最も陰湿な暗闇において認識されるように、「底辺という絶望」こそが、「最高の希望」を掴みうる瞬間でもあるのです

多くの人も体験済みなのではないでしょうか?自分が今まで努力してきたことが報われなかった時、積み上げてきたものが一気に切り崩された時、その時はあらゆる自己肯定感が失われ、自信もなくなり、「自分はなんていう出来損ないなんだ」と「底辺」に落ち込んでしまいます。しかし、その「底辺」をある時一筋の光が差し込みます。その光は新たな自分の道を指し示すものであります。それを私たちは「希望」と呼び、その光の指すままに新たな一歩を踏み出すのです。そう、「底辺」とは希望が光り輝くためのステージであり、このステージなしに私たちは希望を持つことすらできないのです。であれば、「底辺」こそが私たちの可能性の正体であるということができるでしょう。故に、「底辺」は「深淵」とも表現されるのです。

ではなぜ私たちは「深淵」を「底辺」と恐れるのか?そのような良いものであれば、恐れる必要などないではないか、と思う方もいるかもしれません。実際その通りだと思います。しかし、「深淵」は私たちの可能性であり、かかる可能性は無限です。つまり、私たちには何が何だかよくわからないものなのです。そして私たちは何が何だかよくわからないものを恐れ、不安に感じます。いわゆる将来に対する漠然とした不安はここに由来します。これは人間が根本的にもつ矛盾です。すなわち、「深淵」は私たちの生を支えるものであるのにもかかわらず、その正体が不明であるが故に、私たちは時にその「深淵」といつの間にか敵対しうるのです。いわゆる現代の天国と地獄は、かかる「深淵=底辺」が用意するステージなのです。

「底辺」と「深淵」は同じものを指し示し、その違いはアスペクトに基づくものです。天国、つまり可能性として働くのであれば「深淵」になりますし、地獄、つまり敵対するものとして働くのであれば「底辺」になります。この二面性は、ある視点から捉えれば厄介なものとなります。しかし、別の視点から捉えれば、これほど心踊るステージもありません。なぜならば、これを「底辺」とするか「深淵」とするかは、私たちの自己にかかっているからです。私たちが希望を忘れず、這いあがろうとするならば、それは「深淵」として自己を刷新する豊かな土壌となります。他方、私たちが何もかもを捨て去り、不貞腐れるならば、それは「底辺」として私たちを「クズ」にして、自己破壊さえ促します。私たちの生は、そのような豊かな場に根をおろしているのです。

動画内で主人公が変わっていくように、私たちも自分たち次第で如何様にも変わっていくことができます。「深淵」とは、そのような変革のきっかけであり、また変革を可能にするステージなのです。従って、どのような「クズ」であっても変わる機会はいくらでもあり、むしろ「底辺」を実感している「クズ」だからこそ誰よりも飛躍できるチャンスを持っているのです。たびたび誤解される親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」とはまさにこのことであり、「底辺」を知っている悪人こそ、「底辺」を自分のいる位置とは考えていない善人よりも、可能性に満ち溢れているということを伝えているのです。本当によくありたいのであれば、私たちは「底辺」を排斥するのではなく、むしろそれを自らのうちにあるものとして受け入れることで、新しい世界が開けてくるのではないでしょうか。また、この苦境の中で、他人に正義の鉄槌を下すことがますます流行っていますが、このような時こそ、自分自身を見つめるべきなのではないでしょうか。

下は、私が今日紹介させていただいたチャンネルです。ぜひご登録をよろしくお願いいたします。


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