浮き輪

ここ最近はようやく発言と年齢が追いついてきたのか、年上の方と話す時に以前よりも真摯に向き合ってもらえることが増えた。

最近、自分の歳を語ると「婚約されてるんですか?」と聞かれる。前までは「彼女はいるんですか?」だった。

菓子折りを選ぶときに昔よりも相手のことを考えるようになった。ただ単に人気でたくさんの種類が包装されてあるものじゃなく、その人から時間と場所を取らないかどうか気にするようになった。

ほんの僅かな差ではあるけれど自分のステージが少し上がったことを他人の目を介して気付かされる。このままじゃすぐに死んじゃうなぁ、なんて呑気なことも考えたりする。

生意気にも若干24歳の時に料理長を経験して今は東京の星付きの店で働かせていただいているが、昔からずっとコンプレックスに感じてることがある。圧倒的な社会経験の低さと、目上の人間との対峙力の低さ。飲食業という小さい社会にしか身を置いたことがない僕が圧倒的に足りていない部分だ。井の中の蛙は当然大海を知らない。

困ったことに僕はほぼ全ての若者が持ち合わせている「可愛げ」という武器を持っていない。可愛げは言わば大海で溺れないようにするための浮き輪だ。そんなありとあらゆるピンチで使うことができる最強の武器を僕は持っていなかった。可愛くない後輩は当然粗を探される。最近は滅法減ったらしいけど、そもそも飲食は荒っぽい業界なもんで常に現場では対等の扱いが多かった。

そういえば、目上の人の前で自分の考えを話すとき「その考えは若い」と括られることが過去に何度かあった。そう言われると毎度なんとも言えない気持ちになる。お前も同じ井の中しか知らねえくせに、と思う時もあったけど、その言葉は毎度簡単に飲み込めた。あくまでも向こうは蛙で自分はおたまじゃくし、大海は知らずともその井の中の深さは僕よりも知ってる人間だから。

逆の発想で可愛げの無さを武器として活かし立ち回れるのであればそれは破格のスケールの気持ちの豊かさだ。当然持ち合わせていない。こればかりは時間が解決してくれるモンだと思いながら生きてきて今年25歳になった。

僕は25歳になっても可愛げのある人に嫉妬してしまう。故に、可愛がられている人が垂れる文句や不満や苦労の類を理解することができない。なぜなら文字通り自分が可愛がられてきた経験がないからだ。

浮き輪を持っていない(持つことができない)人間は自分で泳ぎ方を覚えるしかない。常に現場の臨場感の中に身を置いて楽しいこともそうでない事も経験してきた。
浮き輪を使って練習するのが一番効率が良いのはもちろんわかってる、浮き輪で沈まないようにして蛙の背中について行く練習から始めた方がいい。

僕は弱っちいもんで、何回も溺れてその度に掬い上げてくれた人に生かされてる。毎度手を掴んで引っ張り上げてくれる人がいる、その度に相手の顔が見える。

じゃあ今度は俺が引っ張り上げてやらないとな、と思うけど、そういう人たちはみんなかなか溺れない。一度溺れたことがあるからだ。

溺れることができてよかったと思う。その度に掬い上げてくれた人と顔を突き合わせ、対峙してきた時間だけが僕を構成してる。決して可愛がらず、自分が沈むまで見守って、いざという時に手を差し伸べてくれる。

背中だけを見てたら表情までは見えない。僕にとっては顔を見ることに大きな意味がある。

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