傷からしか学べない
昔と比べると今はとても幸せだけれど、生活をしていく中で、どれだけ良いことが起きたとしても体の内部には悩みは確かにあり、その悩みはコックになりたての頃と比べると分かりやすくなくて、自分のためなのか、誰かのためなのか、そもそも利他なのか利己なのか以前にどこを目的地として据えた悩みなのか。
誰かに分かって欲しいとは思うくせに、僕は自分の傷を簡単に理解されたくないとも思っている。
友人”きだしん”(イケメン)との出会いは僕が調理師養成学校に通っていた頃だった。
きだしんは僕よりも5年早く上京し、大手の飲食店グループに就職した。僕とは全く違うコック人生を歩んでいる。更に彼は学生の頃から読書家で、僕よりも沢山の本を読んでる。いろんな物差しで世界を見ることができる人だ。同い年ではあるけれど尊敬している。
きだしんに自分では言語化できない気持ちや感情を話し、それを受け止めてくれた瞬間に僕はひとりじゃなくなる。
こんなことを言う権利はない、誰も共感しないかもしれない、でも、恐る恐る言ってみる、理解が肉声で返ってくる。そういう瞬間が何度もありました。
話をしていて、きだしんは傷から何かを学ぶ姿勢がある人間だと感じる。
してきた経験こそ違えど、話していて自分と同じ地平を生きているような気がする瞬間が多々ある。一緒に苦楽を共にした訳ではないのに。
僕は札幌の小さな街での下積み時代を経てお店のシェフを経験、20代前半をえげつないスピードで過ぎていく毎日の中で日々悩みを塾考しながら走って最終的にオーバーヒートして東京に逃げてきた。
一方きだしんは色んな感情に塗れた毎日を東京で過ごし、僕よりも広い世界で沢山の悩みと時間をかけて向き合って生きてきた。それから少しして何かを手放したり、逆に何かを見つけたりした経験がある。僕とは少し違うコックの在り方を感じるのにどうしてか通じ合う感覚があり、それから月に一度必ず予定を合わせてお酒を飲みにいく間柄にまでなることができた。
東京に越してきて4回目のきだしんとの定期飲み、僕はずっと言えなかった悩みを打ち明けてみた。
今この場で言語化できるほど軽い悩みでは無いので、思考の段階が稚拙なまま書くのは控えさせていただく。だけど、その返答を聞いた時の心が少し軽くなったような感覚が忘れられない。
そういう言葉は心の中でお守りとなり、心のフックにかかり続ける。
専門学生の頃、半人前ながらにして感じていた料理の仕事に対しての疑問。それにはとても助けられた。
その気持ちは今でもちゃんと心の中で否定したいと密かに燃やしている。同時にその中に僕の傷がある。
リアルタイムで僕の精神状況を見ていたきだしんは当時は僕に何も言わなかったが。その飲み会できだしんは「しんやがあの職場を経験したおかげで、同じ傷を見せ合える人たちと出会えるね。」と言った。
嬉しかった。言葉にはしたく無いけど、誰かが分かってくれていたのが嬉しかった。僕の傷がカサブタになるまでその言葉を言わずにいてくれたことが嬉しかった。
同時にきだしんもその1人なんだと思い、背負っていた荷物を分け合えたような気持ちになれた。
先日、Netflixで配信されたトーク番組『LIGHT HOUSE』を視聴した。
オードリー若林さんと星野源さんが1ヶ月に一度互いの消化できない悩みや癒えない傷を持ち寄り、それをテーマにトークを繰り広げるという内容の番組だった。
両人ともニッポン放送のANNのラジオパーソナリティーをしていて、毎週欠かさず聞くくらいのファンである。
ラジオを聞いてて思うことは、この2人は闇を受容する力がとても強い人達だということだ。両人ともちゃんと自分の闇を持ちながら生きている。
そういう人は他人の闇を頭ごなしに否定したり、極論で詰めたりは絶対にしないのだ。そういうところを心から尊敬してる。
2人がトークを繰り広げていく中で、若林さんの「仕事に飽きている」という話を起点に番組の展開が変わる。その日を境に若林さんの持っていた闇が軽くなっていくように見えたのだ。(勿論、完全にではない。)
実力者2人だからこその悩み。そしてお互いの聴く力と話す力、その内容にも深く感銘を受けた。
烏滸がましくも自分と重なる部分を感じた。言葉にできなかったことを誰かが分かってくれる、受容してくれることによって自分の気持ちをを初めて整備できる感覚を知っていたから。きだしんを初めとした、これまでの「なにかが合う人」と出会いの価値を改めて尊く感じた。
両人が共通してることは悩みを伏線にするという姿勢だと思う。星野源さんが当番組の最終話で言っていた「今ある悩みの中に10年後、20年後の宝の地図がある」という発言からそう感じた。
すごく共感した、秩序や既成概念のもとで作られたコンテンツは心に残らない。思い返せば心にずっと残っている物って全て傷があるものだ。
傷しか心には残らない、傷からしか学べないのだ。
身を切って傷を曝け出してでもどうにか抗いたいと必死にもがいた先で出会った光に魅せられて生きてきた。
星野さんがいつかラジオで言っていた「人生の歩みは川を掘る作業」という言葉がすごく好きだ。
川を掘り続けて、なんとかして大きな川の流れに辿り着き水が流れいつか海に行く。水の流れを社会や秩序に見立てた比喩である。
自分の川を掘り続けていくうちにいつしか社会と繋がる、また掘り今度は川を大きくする。そしていつか海にたどり着く。
若林さんは著書【ナナメの夕暮れ】にて、合う人に会うことが人生の一番の基準だと辿り着いたという趣の文章を書いていた。
このエッセイ本に若林さんは沢山の傷と身を切った言葉を記している。何度も読み返して勇気を貰った。
その言葉の解消度を自身の仕事(この記事で言う『LIGHT HOUSE』)を通して明確にしていく姿がとても格好良い。
合う人に会う。それは自分が誰とでも合うわけでは無いことを知っているから。だからこそ合う人に会う、そして共に時間を過ごすこと。そのために頑張る。
この言葉に出会えてから、僕の人生の意味はほぼそれだけで良いと思えたのです。
傷を見せ合うことでそれを確かめ合えるのであれば。この傷はあって良かったと思えるのであれば。その肯定が傷の意味になり、一緒に背負うことで軽くなり、また歩ける。
例えば、これからも一生懸命大好きな料理の仕事を続けて、誰かが僕の仕事のファンになってくれて、その繰り返しを生きていくだけで良いのかな?と思う時がある。金を稼ぎたくて料理をやってるのでは無いけれど、金が無いとできない事が多すぎることも知っている。
知っているけれど僕には必要なのだ。決して金では買えない、合う人が。
今こうやって書くとやっぱりちょっと幼く見えるし、極論を武器にして戦う強面人に勝つのは難しいと思います。既成概念の文脈や価値観、影響力の強い権威によって出る杭は打たれ続け、今の日本の社会がある。
それでも、合う人と一緒に同じ時間を過ごす、
そして星野さんの言う「川を掘る」作業を繰り返していくうちにいつか大きな川辺へとつながりそこで出会った人と今度は一緒に同じ時間を作る、
それに魅せられたどこかの「合う人」とまた出会えたりする。
そうなると、僕の人生はもっと豊かになるんじゃ無いかと思う。
まあ、それでもきっと悩みは尽きないんですけどね。(笑)
でもそれで良いのです。そのおかげで自分の好きなことについて考えて、傷つく事ができるのだから。
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