ぼくは氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』を擁護する

 ぼくは都内の私立大学の放送サークルに所属している。首都圏の大学の放送サークルは、だいたいどこもそうだと思うが、年に数回、番組発表会というのを開催する。大学の教室だとかホールだとかにお客さん(ほぼ100%他大学の放送サークルのひとたち)を招いて、映像ドラマ作品やMV(ミュージックビデオ)やバラエティ番組などを上映・上演する。

 番組発表会でぼくはいつも音声ドラマを上演している。正確には、ぼくが脚本を書き、ぼくが演出を務め、部員が出演を務める音声ドラマ作品を、お客さんの前で、生(なま=ライブ)で上演している。ぼくの音声ドラマは「演劇み」が強い。というか、ほとんど「リーディング」(俳優が手に持った台本を読みながら演じる演劇)である。出演者は衣装を着るし、舞台上では多少の動きがあるし、照明にもこだわっている。聴覚だけでなく視覚にも訴える音声ドラマを作っているつもりだ。

 内部発表会でのことだが、ぼくはミュージカル作品を作ったこともある。といっても一からミュージカルの楽曲を作るのは時間的にも能力的にも厳しいので、アメリカやイギリスのミュージカルナンバーのインストゥルメンタル(カラオケ版)をダウンロードし、それに自作の詞を入れていった。日本語の詞である。原曲の内容とは無関係の詞である。例えば『アニー』の「トゥモロー」という曲には日本の労働問題にまつわる日本語詞を当てはめた。『アニー』の作曲家はその曲を作った時、まさか極東の大学生に自分の曲を魔改造されることになるとは思ってもみなかったに違いない。

 先日、ぼくは、なんとなくクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』を無性に歌いたくなって、「ボヘミアン・ラプソディ 歌詞」とかで検索して、氷川きよしがこの曲を日本語でカバーしていることを知った。氷川きよしが「日本語でちゃんと伝えたい、日本の方に伝えたい」と考えて、湯川れい子氏に日本語詞を書いてもらったということらしい。

 この日本語版『ボヘミアン・ラプソディ』は、2020年に発売された『Papillon -ボヘミアン・ラプソディ-』というアルバムに収録されている。大田区立図書館ホームページで資料検索してみたところ近所の図書館に在庫していることが判明したので、予約していた本を受け取りに行ったついでに借りた。ぼくは中学生の頃から図書館で頻繁にCDを借りているが、氷川きよしのCDを借りるのはこれが人生初である。

 帰宅してさっそくCDを再生してみる。聴く。なんていうか、非常に「ミュージカルの曲っぽい」。ブロードウェイミュージカルの日本語版(東宝とかが製作してるやつ)の楽曲みたいである。「(ガリレオ) ガリレオ (ガリレオ) ガリレオ、ガリレオ、フィガロ」のところなんて、氷川きよしが「歌唱」というより完全に「演技」しているということもあって、ふつうにミュージカルナンバーの一部分って感じである。

 もっとも、もともとクイーンの曲は「ミュージカルの曲っぽい」と言われることが多い。うちの学部の後輩に早瀬というアマチュアロックバンドのボーカルがいるのだが、そいつは、ぼくがミュージカルが好きだということを知って、「じゃあクイーンとか好きそう」と言ってきたほどだ。実際、クイーンの曲だけで構成された『ウィ・ウィル・ロック・ユー』というミュージカルもあって、日本で上演されたこともあるらしい。

 氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』を聴いて、ぼくは去年の春に観た『ネクスト・トゥ・ノーマル』というアメリカのミュージカルの日本語版を思い出し、自分が『アニー』を日本語ミュージカルとして魔改造したことを思い出した。そして、純粋に氷川きよしのパフォーマンスに感激した。6分間もあるその曲を聴きながら、ぼくは何度か鳥肌が立った(あるいは立ちかけた)し、氷川きよしはこの歌を「歌わされている」のではなく「歌っていっている」のだと感じた。

 この曲が世間でどう評価されているのか知りたくなってググってみたら(ぼくはなんでもスマホで検索してみる学者肌の人間である)(それを学者肌と言うのか?)、音楽批評系ライターが「クイーンの楽曲を演歌・歌謡曲のフォーマットに落とし込めていない」「そもそも『ボヘミアン・ラプソディ』は英語で作られているからこその名曲」「氷川きよしにはせめて英語で歌ってほしかった」とディスっているネットのコラムを見つけた。

 実に意味のない正論である。そのコラムには「言語と音楽は切っても切れない関係にある」とも書いてあったが、言語はあらゆる人間の営み(そこにはもちろんあらゆる表現や創作活動が含まれる)と切っても切れない関係にあるのであって、そんな当たり前のことに今さら気付いたふりをして文字数を埋められても困る。

 クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』が英語によって組み立てられた曲だというのは単なる「情報」でしかない。情報がもはや手の及ばない領域に表現はある。たぶん世間一般のライターが陥りがちなことなんだと思うが、下手な評論家は「情報」だけで目先の課題を片付けたがる。いつどこでどういう経緯のどういう計算でこの曲が作られたか、というところから逆算して、目の前の(耳の前の)パフォーマンスの良し悪しや出来不出来、好き嫌いを処理したがる。蘊蓄と評論の区別が付いていないのだ。

 コピーとして不十分だとか、新解釈ができとらんとかいうディスりは、あくまでクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』ありきの話だろう。ぼくはそういう「オリジナル至上主義」が大嫌いだ。カバー曲やリメイク作品を聴いた/観た時、オリジナルと比較してここが特徴的だとか個性的だとか分析するのは有意義なことだし、「氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』よりもクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』のほうがいい」と評すのも結構なことだと思うが、オリジナルを基準にして「合格」「不合格」のレッテルを貼るのは間違っている。そういう態度は「どんなカバー曲やリメイク作品もオリジナルにはかなわない」と決めつけていないと出てこない。「オリジナル至上主義」の評論家は、情報を処理するので精一杯で、目の前(耳の前)の一個一個の作品と向き合えていない。

 例の音楽批評系ライターは氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』を「演歌・歌謡曲のフォーマットに落とし込めていない」と評していたが、そもそも氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』の狙いはオリジナル曲を演歌・歌謡曲のフォーマットに落とし込むことにあったのではないはずだ。氷川きよしなりに日本の大衆に『ボヘミアン・ラプソディ』をぶつけたいというところにあったはずだ。例のライターがそこを読み取れなかったのは、「氷川きよしは演歌・歌謡曲歌手」「この歌はクイーンのカバー曲」という情報だけで評論を片付けようとしたからだろう。

 ぼくは氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』を聴いて、「ミュージカルの曲っぽい」と感じた。まあ、言ってしまえば、氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』の本質を見抜いたってわけだ。それはぼくが東宝あたりの日本語ミュージカルに多少馴染みがあり、過去に自分で日本語ミュージカルを作ったことがあるからでもあるが、氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』を独立した一個の作品として聴いた結果、目の前(耳の前)の氷川きよしに「俳優」の姿を感じたからでもある。

 ミュージカルは俳優にしかできない。ミュージカル曲を歌うなら「俳優」として歌わなければいけない。ミュージカルの出演者はミュージカル曲を「歌っている」のではなく「演じている」のだ。それぐらい、「歌うこと」と「演じること」は違う。いや、「演じること」とそれ以外は違う。誤解を恐れず言えば、『ボヘミアン・ラプソディ』での氷川きよしは「歌手」ではなく「俳優」だった。だから、氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』はミュージカル曲っぽくなったんだ。ぼくに「これミュージカル曲っぽいな」と思わせることができたんだ。

 ところで、ぼくはクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』を聴いて「ミュージカル曲っぽい」と感じたことはない。というか、クイーンのどの曲を聴いても「ミュージカル曲っぽい」と感じたことはない。クイーンの曲はどれを何度聴いても「ロックバンドの曲っぽい」と感じる。ぼくがミュージカルが好きだと知って早瀬が言った、「じゃあクイーンとか好きそう」という発言もいまだに納得いってない。ぼくの感じる限り、フレディ・マーキュリーはアクターではなくミュージシャンである(完全に)。

 というわけで、ぼくは氷川きよしの『ボヘミアン・ラプソディ』を擁護する。たしかにその日本語詞は「ぼくだったらこういう日本語にするのにな」と思うところがあるし、歌詞の解釈がもともと難しかったのが日本語詞にしたことでますます意味不明になった感もあるが、「これが現実? それともファンタジー?」で始まって「真実なんて目に見えない 真実なんて誰にも分からない」で締め括られるこの日本語版『ボヘミアン・ラプソディ』がぼくは大好きだ。それはぼくが日本語ミュージカルが好きだからでも、この日本語版『ボヘミアン・ラプソディ』がミュージカルの曲っぽいからでもなく、純粋に「俳優・氷川きよし」の表現に惹き込まれたからである。

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