ぼくと彼女は風景論以後展へ行く

 10月1日は都民の日だった。都民の日は、東京都が管理する美術館や動物園が誰でも入場無料になる。今年の都民の日はちょうど日曜だったので、毎週日曜に会うことになっているぼくと彼女は東京都写真美術館へ行き、入場無料を満喫してきた。3階展示室では『TOPコレクション 何が見える? 「覗き見る」まなざしの系譜』という展覧会がやっていて、地下1階展示室では『風景論以後』という展覧会がやっていた。『覗き見る』展のほうはこの前のnoteで詳しく書いたので、今回は『風景論以後』についての記録である。

 2階のミュージアムショップを出て、ぼくらは階段を降りて地下1階展示室へ向かった。『覗き見る』展がものすごく面白かったので、ぼくとしてはもう満足していたのだが、せっかく無料なのに展示を1/2だけ見て帰るという選択肢はあり得ない。ただ、正直言って、ぼくは『風景論以後』のほうは期待していなかった。この日の東京都写真美術館では『覗き見る』展がメインの展覧会で、『風景論以後』のほうは「おまけ」程度に考えていた。

 それは由梨も同様で、階段を降りて地下1階展示室に向かう時も、展示室に入ってからも、『覗き見る』展に向かう時と比べて明らかにテンションが落ち着いていた。ぼくのほうはというと、由梨以上に落ち着いていた。もはや「落ち込んでいた」と言っても過言ではない。写真撮影可の展覧会ではいつも写真をパシャパシャ撮りがちなぼくも、スマホを手提げかばんにしまいっぱなしにしていた。それは周りに写真撮影をしているひとがいなくてここが写真撮影可の部屋なのかどうか分からなかったからでもあるが、単純に展示物に興味が湧かなかったからでもある。写真美術館という名前の施設に来ておいてなんだが、ぼくは写真には興味がないんだよなあ。嫌いってわけではないが、5秒以上眺める気にならない。

 「住宅地をただ撮ってるだけのビデオか」とか「中平卓馬って名前かっこいいな」とか思いながらブースを進んでいく。隣を見ると、やはり由梨も若干退屈そうである。まあ、「おまけ」の展覧会だからこんなもんかと思いながら、『4章 風景論の起源』と題された最後のエリアに入る。……ん? なんかこれまでのエリアと雰囲気が違うぞ。モニターから白黒の映像が流れていたり、映画の台本や雑誌の切り抜きらしきものが展示されていたりする。

 ぼくは放送サークルに所属している。ついでに言うと、由梨も他大学の放送サークルに所属している(だからこそぼくらは知り合った)。ぼく自身は普段は音声ドラマを作っている人間だが、映画や映像作品には人一倍興味があるし、実際に短いMVやCMなら作ったことがある。大島渚監督の映画の台本や若松孝二監督の映画の映像などを前にして関心を持つなというほうが無理な話である。

 ただ、ここで真実を告白すると、この時、ぼくにとっては大島渚も若松孝二も「名前を聞いたことがある」程度の存在でしかなかった。ぼくは大島渚や若松孝二の名前というよりも、その場で展示されていた台本や上映されていた映像自体に惹き付けられたのだ。立派だね、ぼくの感性!

 特にぼくが惹き付けられたもの。その一番目は、モニターから流れていた若松孝二監督の映画『ゆけゆけ二度目の処女』(一部抜粋)だ。1969年のモノクロ映画である。やさぐれた感じの女子と眼鏡をかけた男子が、どこかのビルの屋上にいて、「ここから飛び降りたら何秒で死ねるかな」的な会話をしている。台詞も興味深かったが、ぼくが惹き付けられたのは俳優の発声や表情だ。最近の邦画で俳優が表現しているものとはムードが違う。ものすごく作りものっぽいとも思えるし、極限までリアリスティックとも思える。軽薄っぽくもあるし、純文学的でもある。ぼくは思わず神経を吸い取られた。ぼくはもともと昔の映画や昔の小説を好きになりがちな人間のはずなのに、これまで若松孝二を通ってこなかったのが自分でも不思議でならない。

 ぼくが惹き付けられたもの第二番目は、大島渚監督の映画『東京战争戦後秘話』の予告編だ。これは『ゆけゆけ二度目の処女』を流していたモニターの向かい側のモニターから流れていた。壁に貼られた地図を男が上から黒いペンキで塗りつぶしていく。そこにナレーションがかかる。ぼくとしては「原題『東京風景战争』。現代社会の欺瞞を告発、なんてしない!」というナレーションが印象に残った。文字にすると軽薄なおふざけナレーションって感じだが、ぼくにはその「告発、なんてしない!」は一種の決意表明のように聞こえた。態度表明というか、覚悟の表れというか。「告発します」と宣言して真正面から立ち向かうだけが「闘い方」のすべてではない。人間の闘い方は様々だ。大島渚は社会の何かに対して「そういう闘い方」を続けた映画作家だったんだろうなと感じた。

 ぼくが『ゆけゆけ二度目の少女』と『東京战争戦後秘話』の映像を見ている時、由梨はそこまで興味がないはずなのに、ぼくの隣に立ってぼくの長時間鑑賞に付き合ってくれていた。ぼくが由梨と展覧会に行った時に気まずくなるのはこういう時だ。ぼくと由梨は好みの価値観が常に一致するわけではない。由梨が惹かれるものにぼくは惹かれなかったり、ぼくが惹かれるものに由梨は惹かれなかったりする。由梨は大人なので「つまらない」とか「退屈だ」とか「はい移動します」とか言ってきたりはしないが、ぼくだって多少は空気を読めたりするので、自分の鑑賞ペースに相手を付き合わせちゃってるなというのは分かる。申し訳ないっていうか……。一人で来てるんだったら同行者を気にせず自分の好きなものを好きなだけ見れるのになあ。実際、ぼくは去年、東京都美術館の岡本太郎展に由梨と一緒に行った後日、きちんと見直したいと思って、改めてまた1,300円を払って一人で見に行った。交際期間が長引いているせいでいまはもうあの頃ほどは気を遣わないようになったが、でもやっぱりいまでも気まずいことは気まずい。ぼくはいまだにこういう状況の解決法を知らない。ぼくが由梨の鑑賞ペースに合わせる分には全然気にならないんだけどね。

 100円ロッカーに預けていた荷物を回収して、東京都写真美術館を出て、恵比寿ガーデンプレイス内で「恵比寿文化祭」とかいうイベントがやっていたので見物して、キッチンカーでハワイ風ハンバーガーを買って食べて、今度は東京港野鳥公園(都民の日なので無料)へ行って……という話はさすがに面倒なので書きません。代わりに、後日、ぼくが大田区立図書館で『風景の死滅』という本を借りたという話を書いておきます。これは松田政男というひとが書いた本で、このひとが掲げた「風景論」というのが1960~70年代の日本では注目を集めたらしい。というか、今回ぼくらが見に行った展覧会『風景論以後』は、この松田政男の「風景論」にインスパイアされた展覧会だったのだ(ということをぼくは展覧会を見終えてから知った)。

 いま、ぼくは図書館で借りた『風景の死滅』を読み進めながら、松田政男というひとが書く文章の面白さを感じ、こういう面白い文章を書ける大人になりたいと思っている。ここまで読んできた中で特に面白いなあと思ったのは、藤圭子に関するエッセイだ。藤圭子は「夜」の歌を歌っている。「夜」の象徴だ。その藤圭子を昼間の公園に連れ出してインタビューする、という企画が当時のテレビ番組であったらしい。松田政男はこの企画を安直で薄っぺらいと糾弾する。「夜」と「昼」を反転させたところでしょうがないじゃないか、「夜」が「昼」に変化する過程にこそ注目すべきじゃないかと。その流れでラジオの深夜放送も非難する。あのバカ騒ぎは「昼」を「夜」に持ち込んでいるだけじゃないか、あんなものにハマっている若者たちはかけがえのない「夜」を捨てているのだと。放送サークルに所属し、深夜のラジオ番組に価値を感じているぼくとしてはイラっとする文章であるのだが、ただまあ、ドキッとする文章でもある。

 ぼくはまだ実は『ゆけゆけ二度目の少女』と『東京战争戦後秘話』の本編を観ていないが、近いうちに観ることになると思う。『風景の死滅』についても近いうちに読み終えると思う。東京都写真美術館地下1階展示室で開催された展覧会『風景論以後』に行ったことで、ぼくという人間は何かがガラッと変わったわけではない。むしろ、ぼくという人間がどういう人間なのかを確かめることになった。どういうものに惹かれるのかを自覚させられた。台詞、演技、表情、台本、文章、放送。例えて言うなら「現代社会の欺瞞を告発、なんてしない!」。無料で見た展覧会と無料で借りた本で自分自身の正体と向き合うぼくは、なかなかに安上がりな男だと言わざるを得ない。

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