ぼくは男女の友情を考える

 新年度が始まって3週間が経った。大学の構内で1年生(知り合いではない)とすれ違うと、「あ、いますれ違ったのは1年生だな」となんとなく分かる。……いや、本人に尋ねたりはしないので、本当は何年生なのかは分からないんですけどね。高校生なら制服の着こなしで察しがつくけど、大学生は私服だし。顔つきも18歳ともなれば出来上がってくるので、「大学4年生に見える大学1年生」もいれば「大学1年生に見える大学4年生」もいるし。

 じゃあ、ぼくは他人のどこを見て「いますれ違ったのは1年生だな」と見抜いているのかというと……全体的な雰囲気かな? 「オーラ」っていうか。まだキャンパスに馴染んでない感じや、初々しい感じ。そういうのを見て、ぼくは「あ、いますれ違ったのは1年生だな」と見抜いている。もちろん、ぼくのこの観察が根本的にバグっている可能性はありますが。

 この前のある日の午後、ぼくは8号館の前で1年生──もとい、1年生らしき物体が歩いているのを見かけた(言い方)。男子と女子の二人連れだった。これまたなんとなくだが、おそらくカップルではない。サークルか演習が同じで、行く教室もしくは出てきた教室が一緒だったので雑談しながら移動している、といったところだろうか(冴えわたるぼくの洞察力)。

 その二人を見ながら、ぼくは、1年生の時の哲学科のオリエンテーションを思い出していた。N教授が「哲学は現実に根差しています。例えば、『男女間に友情は成り立つか』というのも哲学上の問いですよね」という話をしていたのだ。

 ぼくはゲイである。だから、その問いがいかに愚問なのを知っている。「男女の友情は成り立つか」という問いは、「性的魅力を感じる性別のひととの友情は成り立つか」という問いを言い換えたものだろう。もし「性的魅力を感じる性別のひととの友情は成り立たない」のだとすれば、ぼくはどんな男性とも友達にはなれないことになる。しかし、ぼくには男性の友達がいる。決して多くはないが、いる。「男女の友情は成り立つか」とは、ぼくの存在をもって0.1秒で解き明かされるイージー問題であり、その問い自体が異性愛規範に染まった愚問なのである。

 ただ、もう少しだけ突き詰めて考えてみると、そもそも「友情」とは何かという話になる。デジタル大辞泉(小学館)によると、「友情」という単語は以下のように解説されている。

ゆう‐じょう〔イウジヤウ〕【友情】の解説
友達の間の情愛。友人としてのよしみ。「—が芽生える」「—に厚い」

デジタル大辞泉(小学館)

 では、「友達」とは何かというと、以下のように解説されている。

とも‐だち【友達】の解説
互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友(ほうゆう)。友。「—になる」「遊び—」「飲み—」

デジタル大辞泉(小学館)

 いまのぼくが「友達」という言葉から真っ先に連想するのは、学科の同学年の香川、幼稚園・小学校・中学校の同級生だった楢崎、学部の後輩の早瀬の3人だ。この他にも、中学校の同級生だった橋部や佐野や松田、放送研究会の同期の河村や宮田や堀切などがぼくの「友達」としてカウントされるはずだし、向こうもぼくのことを「友達」と思っていると思う。

 だが、それを言うなら、放送研究会(兼インカレの放送サークル)の後輩の藤沢や梶や井上公輝だって、ぼくにとっては「友達」という感覚だ。ただ、デジタル大辞泉の「対等に交わっている人」という定義が頭の中で引っかかって、「先輩と後輩だから『対等』ではないかもなあ」と思ってしまって、それでさっきの「友達」の例からは外したのである。ちなみにさっき、学科の後輩なのに早瀬を「友達」としてカウントしたのは、早瀬が一年浪人していてぼくと同い年だからです(一緒にいてもぼくは先輩扱いされている感じがしない)。

 いずれにせよ「性的魅力を感じる性別のひととの友情は成り立つ」ということはお分かりいただけたと思うが、ただなあ……やっぱりぼくが気になるのは「友達」とは何なのかということなのだ。デジタル大辞泉は「互いに心を許し合って」と解説しているが、これって結構ハードル高くないですか? いまここで名前を挙げた連中のうち、ぼくが「ぼくは男性を好きになることがある」と打ち明けたことがある相手は早瀬だけだ。しかも、その早瀬に対してだって、ぼくは「ぼくはバイセクシュアルだ」と嘘をついている。ぼくにとって自分がゲイであることはそれなりに重要な要素なので、それを彼らに言えていないということは、彼らは本当はぼくの「友達」ではないのだということになる。

 そうなると、さっきは名前を挙げなかったが、ぼくがゲイだと明かした2人は「友達」ということになるだろうか。一人は高校の同級生だった須川くん、もう一人はぼくの初体験の相手である上野くんである。ぼくが須川くんに告白したことでぼくと須川くんの友情はフェードアウトしたが(毎日していたLINEのやり取りも終幕した)、上野くんとはいまだにメッセージをやり取りしているから「友達」と言っていいかもな。まあ、メッセージのやり取りと言っても、基本的にはお互いの発表会の告知が目的なんだけど。

 それで思い出したが、ぼくが放送研究会の渉外で知り合った他大学のひとたちは「友達」ではないのだろうか。他大学の渉外のひとは「同業者」や「取引先」という側面が強いが、ぼくは個人的に仲良くなったひと(豊島くんとか白州くんとか今村くんとか)とは一緒に飲みに行ったりしている。豊島くんとはこの前の春休みに2度も会ったし。ただ、T大学の殿岡くんのことを「友達」と呼んでいいかは微妙だなあ。ぼくは殿岡くんとは番組発表会で会う度に話し込む仲だが、個人的に飲みに行ったことはないからなあ。向こうもぼくのことを「友達」とは思っていないと思う。

 ……とまあ、話があっちに行ったりこっちに行ったりしたが、ぼくのひとまずの結論としては「デジタル大辞泉クソくらえ」である。……いやね、ぼくはここまでデジタル大辞泉の定義に振り回され、「あのひとを『友達』と呼んでいいのか」「あのひとは『友達』の定義から外れる存在なのではないか」などと脳内で試行錯誤を働かせてきた。だけど、そもそも人間関係はそうやって特定の単語にはめ込んで分類することなんかできない。一つひとつが独特なものなのである。

 例えば同じ「友達」といっても、ぼくと香川の関係性と、ぼくと早瀬の関係性は違う。ぼくという人間のキャラクター自体は1mmも変わらないが、関係性は一つひとつが独自仕様なのだ。早瀬は香川の代わりにならないし、香川は早瀬の代わりにならない。ぼくと香川の関係はぼくと香川だけの関係だし、ぼくと早瀬の関係はぼくと早瀬だけの関係だ。だから、「ぼくには友達がいる」というより、「ぼくには香川がいる」とか「ぼくには早瀬がいる」とかいうのが説明としては正確である。

 関係性は異なるが、ぼくは香川といる時も、早瀬といる時も、まあ、基本的には居心地がいい。我々人類の祖先はきっとそういう共通項を持つ関係を総称して「友達」と呼ぶことにしたのだろう。たしかに便利な言葉である。どういう関係かと聞かれた時に「ぼくらは友達です」と答えれば一発で通じるもんね(相手が信じるかは別として)。

 だが、言葉は言葉にすぎない。言葉以上のものでも、言葉以下のものでもない。ぼくはゲイだが、小手由梨という女性と付き合っていて、女性とセックスするゲイである。デジタル大辞泉はきっとぼくのことを「お前はバイセクシュアルだ。ゲイを名乗るな」と糾弾するだろう。ただし、ぼくは自分を「バイセクシュアル」という言葉の中に抑え込むことはできない。英語圏の誰かが思いついた言葉を借りて「ゲイ」と自称するのが妥当だと思う。しかし、やっぱりこれも「女性と付き合っていて、女性とセックスする」というぼくの状態を適切に解き明かす言葉ではなくて、じゃあぼくは何者かと問われたら「ぼくはぼくだ」と答えるしかない。

 結局、ぼくらは言葉に支配されないようにしなくちゃいけないってことなのかもな。言葉による定義や分類や説明は人間を解放するためのものであって、窮屈にするためのものではないはずだ。「友達」とか「ゲイ」とか「彼女」とかいう言葉に自分を縛られてしまっては元も子もない。ぼくは香川との関係を大切にして、早瀬との関係を大切にして、由梨との関係を大切にすればいいのだ。ただそれだけの話だ。いや、それ以外のひととの関係も大切にするけどさ。

 だから、「男女の友情は成り立つか」または「性的な魅力を感じる性別のひととの友情は成り立つか」という問いに対するぼくの答えは、「そんなことを気にする必要はない」となります。だって、ぼくが気にするべきは、「友情」という言葉や定義にかかわらずに存在する一つひとつの人間関係なんだもんね。ちゃぶ台返しでごめんなさい。でも、本当にそうなのだ。ぼくにとって大切なのは、「男女の友情は成り立つ/成り立たない」という客観的真理を決め付けることではない。「ぼくは(特定の誰か)との関係を大切にする」という主体的真理を生きていくことなのだ。はい、キルケゴール!

 なんだか最終的には「男女の友情は成り立つか」(ぼくの場合は「男性との友情は成り立つか」)というより「友情とは何ぞや」という話になっちゃったけど、これはまあ、ぼくが「友情」と「性的感情」の区別を誤魔化したいからかもしれません(自己分析)。ぶっちゃけ、ぼくは早瀬に性的魅力を感じることがないわけではないし、由梨に恋愛感情に近い感情を抱く一瞬がないわけでもない。上野くんとはまたセックスしたいし、春休みに白洲くんにキスされた時はドキッとした(爆弾発言)。だから、結局そういうことなのです。一つひとつの人間関係は独特で、ぼくはそれを「友情」や「愛情」や「欲情」と定義することにこだわらない。

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