ぼくは傷を愛せるか

 ぼくは傷を愛せるか。ぼくには一か月ほど前から悩んでいることがある。いや、人間はえてして常に悩み事を抱えている動物であり、ぼくだってその例外ではないというだけの話なのだが、noteってそういうどうしようもない感情をぶちまけるための場所ですよね(違う?)。……まあ、noteの正しい使用法については専門家に議論を委ねるとして、とりあえず、今日のぼくはぼくの悩み事について書くことにする。

 ぼくは必ずしもニキビができやすい人間ではない。しかし、いざできてしまうと重症化しやすい人間である。重症化っていうのは、まあ、ニキビの跡ができちゃうとか。肌の一部分が赤っぽいような茶色っぽいような色になって1〜2週間ぐらい目立っちゃうとか。まあ、逆に言うと、しばらく経てば跡は目立たなくなるってことなんですけどね。

 ただ、1か月ほど前にぼくの鼻にできたニキビはちょっと違った。大したニキビでもないから放置していたのだが、ほどなくして膿が出てきて、かさぶたができて、やがてそのかさぶたが剥がれた。剥がれたのはいいのだが、その剥がれた部分がペコっと凹んでしまった。結果、鼻に少し大きめの毛穴ができたみたいになってしまったのである。数日も経てば凹みが元に戻るだろうと思っていたが、1か月経ってもこのままなのである。

 皮膚科に行って診てもらうのは恥ずかしいのでネットで調べてみる。……ふーむ、ぼくの鼻のこの小さな凹みは「クレーター」タイプのニキビ跡ってやつかもな。はあ、憂鬱。元に戻る気がしない。もしかしたら一生このままかも。いや、もしかしなくても一生このままかも。はあ、絶望。どうしてぼくのニキビは悪化してしまったんだ。よりによって鼻(どう考えても目立つ場所)なんかにできてしまったんだ。ああ、死にたい!

 学食で香川(学科の友人)と一緒にお昼ご飯を食べながらこの話をする。そうしたら、香川はぼくの顔を覗き込んできて(香川にあんなにまじまじと顔を見つめられたのは初めてだったので少しドキッとした)、「ああ、たしかに近くで見ると目立つね」と言ってきた。ぼくとしてはこの言葉はショックだった。てっきり香川からは「大したことないから気にするな」的なことを言われるものと思っていた。実際、ぼくはそんな甘い言葉を期待して香川にこの話をしたのである。ぼくがショックを受けているのを察知したのか、香川は直後に「……ま、言われなきゃ分かんないけどね」とフォローしてくれたけど、もはやぼくの精神状態は後の祭りだ。

 逆に、「気にするな」的なことをぼくに言ってきたのは由梨(彼女)のほうだった。横浜赤レンガ倉庫のフードコートでお昼ご飯を食べたあと、みなとみらい地区を散歩しながらぼくは由梨に鼻のニキビ跡の話をした(デートのムード皆無)。そうしたら、由梨はぼくの鼻を見たあと、顔色を変えずに「ふうん、跡になったんだ。赤くなってたもんね」と言った。ぼくが「……目立つでしょ?」と聞くと、由梨は「気にしてるの? わたしはそんなことで(ぼくの下の名前)くんのこと嫌いにならないから心配しないで」と言ってきた。いや、その心配は最初からしてないんですけどね。由梨がぼくの鼻フェチだなんて話は聞いたことがないし。

 でも、そうなのだ。ぼくにとってこのニキビ跡の件は深刻な悩みだが、他人にとっては「そんなこと」なのだ。由梨は実際に「そんなこと」だと言ったし、香川だって「そんなこと」としか思わなかったら普段の雑談の調子で「たしかに目立つね」と言ってきたのだろう。

 ぼく自身も、もしこれが他人の話だとしたら「そんなことでウダウダ悩んでんじゃねえよ」と思うと思う。ぼくのバイト先のコンビニにも頬のニキビ跡が目立つ男子高校生が来店するが、ぼくはそのことでその子にネガティブな印象を持ったりしない。むしろ親しみを抱くというか……いや、顔や肌質はひとそれぞれだよな、ぐらいにしか思わない。もしぼくがその子から「ニキビ跡がひどくて悩んでいる」と相談されたら(ただの店員と客の関係なのであり得ないが)、ぼくはその子に「そんなことで悩んでるの?」とか「気にすんな。むしろかっこいいじゃん」と返すと思う。実際にかっこいいかどうかは別として。

 ただなあ。他人からすれば「そんなこと」だけど、当の本人としては絶望的に気になるんだよなあ。……うーん、こういう感覚の話、過去に何かの本で読んだことあったな、とぼくは思い出す。……あ、『傷を愛せるか』だ。精神科医・宮地尚子のエッセイ集『傷を愛せるか』。高校生の時に図書館で読んだその本の中で、くらもちふさこの『おしゃべり階段』の一節が紹介されていたのだ。『おしゃべり階段』というのは思春期の少女・加南が主人公の漫画である。

 受験生の飛び降り自殺のニュースをテレビで見て、
「ま、わかるが、こんなことみんなも経験することだしなぁ」
 とつぶやく父に、加南は心の中でこう答える。

  でもパパ──
  あたしたち当人にとっては
  「こんなこと」じゃない
  パパはおとなで受験よりも苦しい経験をしているから
  「こんなこと」になるのかもしれない
  あたしが中学の時
  死ぬほどいやだった髪の悩みも
  今はもう忘れかけているのと同じ
  いつだって今の悩みがいちばん
  あの幼い日に悩んだ重さは その内容は違っても
  今 悩んでる重さとほとんど違わないはずなの

宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店) p.15-16

 まさにこれだ。このことだ。「そんなこと」と「こんなこと」の違いはあるが、内容としてはまったく同じことだ。「当人にとっては『こんなこと』じゃない」「いつだって今の悩みがいちばん」。『おしゃべり階段』の一節を紹介したあと、宮地尚子は文章を続ける。

 過ぎてしまえば笑い飛ばせることも、悩み事の真っただ中にいるときは、見通しのきかない、いつ終わるかわからない、果てしない暗闇だ。階段をのぼっている最中は、それがどこまでつづくのか、のぼった先になにがあるのかはわからない。俯瞰的に眺めることができるのは、そこから抜け出し、階段をのぼり終え、振り返って見たときだ。

宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店) p.16

 成人になっても事情は同じである。ニキビはできるし、ニキビ跡もできる。他人からは「こんなこと」(もしくは「そんなこと」)としか思えない悩みでも、当の本人は「死にたい」と思ったりする。きっと人生ってそういう事態の繰り返しなのだろう。「こんなこと」で悩んで、「死にたい」と思って、「こんなこと」で悩んで……の繰り返し。変な話だが、人生はそういうものだと理解すると心が軽くなる。どっちにしろ、ぼくはいつだって「こんなこと」で悩んで、その度に「死にたい」と思うのだ。「死にたい」と思いつつどうせ死なないなら、開き直って生きてやるしかない。

 『傷を愛せるか』の終わりには「傷を愛せるか」という題名のエッセイが収録されている。宮地尚子がここで言う「傷」とはトラウマやPTSDといった「心の傷」のことであって、例えば鼻にできたニキビの跡なんかを言っているわけではない。ただ、そこに書かれてある文章は、改めて読んでみてもグッとくる文章だったので、ちょっと長くなるけど引用したい(決してnoteの文字数を水増ししたいわけじゃないぞ!)。

 傷を愛せるか。心の傷にもいろんな傷がある。擦り傷、切り傷、打撲傷。自傷、他傷。傷つけられたという傷、傷つけてしまったという傷。いつまで経っても治らない傷、かさぶたがすぐ剥がれる傷、どんどん合併症を起こしていく傷、肉芽が盛り上がり、ひきつれて、瘢痕を残す傷、身体の機能不全を起こす傷。
 傷は痛い。そのままでも痛いし、さわられると、もっと痛い。
 傷を愛することはむずかしい。傷は醜い。傷はみじめである。直視できなくてもいい。ときには目を背け、見えないふりをしてもいい。隠してもいい。
 (中略)
 傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること、身体全体をいたわること、ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生き続けること。

 宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店) p.164-166

 ぼくはいま、鼻にできたニキビ跡を愛せていない。醜いと思っているし、みじめだと思っている。直視したくないし、目を背けたり、見えないふりをしたりしている。メンズビオレ ONE BB&UVクリームを塗って隠してもいる(だいぶきれいに隠れる)(ステマじゃありません)。

 しかし、そのことは、ぼくがぼくを愛せないことを意味しない。「傷を愛せるか」というエッセイの最後は、こんな言葉で締めくくられる。

 傷を愛せないわたしを、あなたを、愛してみたい。
 傷を愛せないあなたを、わたしを、愛してみたい。

 宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店) p.167

 宮地尚子先生がぼくを愛してみたいと思っているかは別として、この文章はぼくをハッとさせるものである。「傷を愛せるか」という問いには、「愛せる」という答えも「愛せない」という答えもあり得る。傷を持つひとが傷を愛することができたら、たしかにそれは素晴らしいことで、もはや悩みが悩みでなくなるっていう話なわけだが、現実にはそう簡単に傷を愛せるものではない。そのことを自覚してしまうと、今度は「傷を愛せない」ということが自分の負い目=新たな「傷」となって胸に宿ることになる。

 だとしたら、ぼくはそっちの「傷」のほうを愛してしまえばいい。ぼくには傷がある。だけど傷を愛せない。そんな自分の「心の傷」を愛してしまえばいい。実際、ぼくのような性格の人間には、ニキビ跡自体を愛するよりもそっちのほうが簡単そうだ。「傷を愛せない」ということを自分の「傷」と捉えて、その「傷」を愛するということなら、それはもはや「傷を愛している」ということになる気もするけど(ややこしい)。

 先日、ぼくは由梨に「やっぱりぼくは鼻のニキビ跡が気になっている」という話をした。「他人の顔の話だったら『気にすんな』とか『むしろかっこいいじゃん』とか言うのに」という話をした。そうしたら由梨は、ぼくの鼻を見たあと、ぼくに向かって「うん。かっこいいよ、かっこいい。だから隠さないでいい」と笑顔で言ってきた。笑顔というか半分呆れ顔だったし、ちょっと誘導尋問っぽかった気もするけど。でもまあ、言葉としてそう言われて、ぼくは少し気持ちが晴れた。いや、その時の由梨の態度がぼくのニキビ跡を本当になんとも思っていない様子だったから、ぼくの気持ちは晴れたのかもしれない。

 もっとも、そのあとにぼくは「ニキビ跡 治療」とかで検索して、美容整形外科のサイトを覗いてみたりしましたけどね。料金の案内を見た時点でタブを閉じましたけど。ぼくはニキビ跡に悩む学生である以前に、金欠に悩む学生なのです。まあ、お金があったとしても実際に施術を受けるかどうかは別だな。メンズビオレ ONE BB&UVクリームでほとんど隠せるわけだし、マスクをすれば完全に隠せるわけだし。「傷とともにその後を生き続ける」。うん、まあ、いまのところ、ぼくはそういう方針でいる。

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