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フィンランドの探究vol.2「フィンランドの歴史②」

フィンランドの探究vol.1「フィンランドの歴史①」の続きです。

今回の探究も前回同様、『物語 フィンランドの歴史』(著 石野裕子,2017年)、『フィンランドの教育』(編 北川達夫・中川一史・中橋雄,2016年)を参考文献としています。

なお、この灰色網掛け部分は、主に僕個人の「語り」で、白背景は主に参考文献からの要約です。

前回までの分も含め、今回まとめているフィンランドの対外関係はざっくりこんな変遷を辿っています!

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■揺れる独立国家フィンランドー内戦の果てにー

独立を果たしたフィンランドだが、「持てる者」と「持たざる者」の分裂が埋まらず、内戦へと発展する。

内戦の火種は、19世紀末の「ロシア化」政策に対して、資本家と労働者の対応の違いにあった。資本家側の勢力は白衛隊、労働者側の勢力は赤衛隊と呼ばれる自警団を結成する。

この内戦は、ドイツやロシア、スウェーデンの外国勢力も参加し、白衛隊の勝利に終わった。

白衛隊は、近親民族が居住するフィンランド域外のカレリア地方を含めた「大フィンランド」という国家を実現させるべく、「東カレリア遠征」を繰り返した(1918~1920年)が、最終的に断念。しかし、「大フィンランド」という思想自体は、独立フィンランドで生き続けることになる。


■共和国建設へ

1919年には新しい統治章典が制定され、政党政治も順調に発展した。

1930年代から隣国スウェーデンでは「国民の家」と呼ばれる概念が登場。今日における北欧型福祉の導入である。

フィンランドでは当時そのような概念は定着していなかったが、女性の地位改善の法律や子どもをもつ家庭の支援制度の整備が進み、ネウボラの原型も1922年に設立された。

教育の整備も進み、1921年に義務教育法が制定され、教育水準は上がっていった。


■ナショナリズムと反共主義ーソ連への抵抗ー

1920年代、カレリア学徒会や純正フィンランド性運動などナショナリズム運動が盛んになる中、1929年の世界恐慌をきっかけにラプア運動と呼ばれる反共産主義運動が始まる。この運動の背景には、(ソ連の)共産主義の脅威がフィンランド人の間で共有されたことがある。

1930年初頭になると、経済が上向きになったこともあり、運動は沈静化。中道の政権が続き、政情が安定していく。

ラプア運動の高揚によって悪化したソ連との関係修復のため、不可侵条約を締結(1932年)し、北欧諸国の中立主義への連帯も宣言(1935年)。周辺地域を中立に保つことで、有事の際に大国に翻弄されないようにした。


■第二次世界大戦ーソ連との交戦ー

1939年に始まった第二次世界大戦の間、フィンランドは二度にわたってソ連と戦火を交えた。

一度目は、「冬戦争」(1939~1940年)
二度目は、「継続戦争」(1941~1944年)
と呼ばれる。

◆冬戦争

「冬戦争」の発端は、ドイツの侵攻を恐れたソ連が、フィンランドに条約締結と領土交換を提案するも、その交渉が決裂したことにある。

この戦争はのちに「冬戦争の驚異」と呼ばれるほど、フィンランド軍が善戦し、ソ連は休戦条約に応じることとなる。

◆継続戦争

1941年、ドイツ軍はソ連へ侵攻。ソ連は、ドイツとフィンランドとの協力関係を勘ぐり、フィンランド各都市を空爆。これをきっかけに「継続戦争」が始まる。

この継続戦争を通じて、フィンランドは内戦期にできなかった「大フィンランド」の実現を企てた。しかし、ドイツ軍の敗戦から戦況は一変し、領土獲得は失敗に終わる。

◆ラップランド戦争

フィンランド領にいたドイツ軍を撤退させるべく、「ラップランド戦争」を行う。この戦争は、1945年のドイツ敗北直前まで続いた。


■終戦から冷戦へー苦境化の「中立国」という選択ー

1944年、ソ連およびイギリスと休戦条約を締結したフィンランドは、敗戦国として復興に向かって歩み出す。独立を維持することはできたものの、第二次世界大戦後の冷戦期において、フィンランドは「東」「西」のどちらに付くかの選択を迫られることになる。

第二次世界大戦後、日独は連合国の戦犯裁判によって裁かれたが、フィンランドが日独と大きく異なる点は、自ら戦争責任裁判を行ったことである。

休戦後、フィンランド政府の最重要課題はソ連との友好関係であった。戦後フィンランドの親ソ路線は外交政策の基本となった。

他方、冷戦期に幾度かソ連からの内政干渉事件があり、ソ連が外交的な圧力をかけることで他国の内政を操っているという意味で「フィンランド化」という言葉が使われたこともある。
現実には、親ソ路線の一方で、「中立」という概念を盾に、ソ連からの干渉に耐え、ソ連の「衛星国」になることはなかった。

◆工業化と経済成長

1960~1970年代に、フィンランドは経済成長が進んだ。これと並行して他の北欧諸国と同様に福祉を充実させることに成功する。フィンランドの経済成長の速さを例えて、1980年代には「北欧の日本」と評されることもあった。戦後復興から経済が発展するなか、フィンランドは農業社会から工業社会への転換が徐々に進んだ。

ソ連だけでなく、イギリス、西ドイツ、スウェーデンといった西側にも輸出を拡大できた立役者としてノキア(NOKIA)の存在がある。

◆福祉国家への道

1948年の17歳未満の児童手当の支給を皮切りに、1950年代から徐々に福祉を充実させる政策を施行していった。

フィンランドは北欧の中では福祉の発展は遅い方だった。福祉国家に先陣を切ったのはスウェーデン。

◆フィンランド文化

冷戦期には今日に見られる「北欧のデザイン」が誕生する。

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◆教育民主化革命

1966年に誕生した社会民主党を中心とするパーシオ内閣は、社会的平等と経済発展を目的として教育改革に着手する。

1960年代末までは、フィンランド自治大公国時代の学校制度が維持された。1968年の基礎教育法を皮切りに始まった教育民主化革命により、現在の教育制度が確立された。

特筆すべきは、70年~91年まで、エルッキ・アホ国家教育委員長が最高責任者として改革を推進したことである。エルッキ・アホは「基礎学校制度の父」「学校民主化の父」として、その功績を称えられている。

フィンランドの行政機関では、何らかの制度改革を進めるとき、若い担当者が改革の部門長に就任し、そのまま定年まで部門長を務め続けるケースが少なくないようです。

教育民主化改革で重要なのは、
・中央集権的な教育から地方分権と現場裁量を重視する方向に転換したこと
教育を完全に無償化したこと
・義務教育が就職コース(民衆学校―市民学校)と進学コース(民衆学校4年までー中学校)に分かれていたのを9年制の基礎学校に一本化したこと

その他
・学校週休2日制導入
・すべての教師に大卒資格が求められる
・教科書検定制度の廃止
などがある。


■ソ連崩壊ー西ヨーロッパへの接近ー

ソ連崩壊を機にフィンランド政府の目はヨーロッパに向き、フィンランド外交は西ヨーロッパと連動するようになる。

EU加盟後、フィンランドはEU重視の政策をとり、平和外交に力を注いだ。

◆新憲法制定

フィンランドでは、独立以降4つの基本法が憲法として位置づけられていた。それらは時代に合わせて改正を重ねてきたが、基本法を統合した新憲法が1999年に成立する。

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■フィンランドの現在

これまでフィンランドの歴史を見てきましたが、たしかにフィンランドは「常に強国の狭間にある」環境の中で自分たちがどう在るべきかを問われ続けた歴史だなぁと。一方で、その歴史が礎となって現在のフィンランドの民主主義や高福祉の在り方があることも分かりました。
そんなフィンランドはこれからどこに向かうのか、現在の課題について触れてみたいと思います。

◆フィンランドが抱える課題

世界各地で広がる貧富の格差も、2000年代からフィンランドでも見られるようになってきた。グローバル化の波が押し寄せ、非正規雇用が拡大した。

また、冷戦終結後の不況によって、社会保障給付の削減が行われたため、公的機関が担ってきた福祉サービスの一部が民間に移行し、社会保障のあり方が変化してきている。

不況は福祉国家を揺るがせ、高水準の福祉政策を維持できるかは先が見えない状況にある。

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