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フィンランドの探究vol.1「フィンランドの歴史①」

何の前置きもなく、フィンランドに関する探究をふわっとはじめていきたいと思います。笑
今回の探究は『物語 フィンランドの歴史』(著 石野裕子,2017年)、『フィンランドの教育』(編 北川達夫・中川一史・中橋雄,2016年)を参考文献としています。

なお、この灰色網掛け部分は、主に僕個人の「語り」で、白背景は主に参考文献からの要約です。

フィンランド人はしばしば自国を「東と西の狭間」に位置づける。
※東はロシア、西はヨーロッパ、或いは東はロシア、西はスウェーデンを中心とするほかの北欧諸国のときもある。

こうした主張の根底には「我々フィンランド人は強国に翻弄されてきた」という考えがある。その狭間で生き抜いてきた自負が込められている場合が多い。

今回のフィンランドの歴史探究は
 ①スウェーデン統治時代
 ②ロシア統治時代
 ③独立時代
という時系列を辿ります。
vol.1では、①②を4000字程度でざっくりまとめています。


■スウェーデン統治時代

フィンランド史では、スウェーデン統治時代に起こったフィンランドの苦難を「古き怒り」「長き怒り」「大きなる怒り」と表現しているようです。
怒ってばかりなのだ。

13世紀~16世紀初頭まで、フィンランドはスウェーデン王国の一地方として王国に組み込まれ、スウェーデンの東部として存在した。

政治の動きとしては、スウェーデンでは13世紀に貴族や聖職者が参加する王国参事会が設置され、参政権を得る。15世紀からは身分制議会が設置され、農民の代表も参加するようになった。農民の政治参加は中世ヨーロッパ諸国では珍しい。フィンランドでも1616年からヘルシンキで身分制の地方議会が設置された。

経済の動きとしては、フィンランド最大の経済資源である森林は「緑の黄金」と呼ばれ、林業が発達した。また、船を建造する際に防腐・防水材として使用するタールも貿易の主産品となった。

1470年代、フィンランドが戦場になったこの時代は「古き怒り」と呼ばれ、16世紀半ばのスウェーデンとロシアとの戦争時代を「長き怒り」と呼ぶ。


◆スウェーデン絶対王政時代とその終焉

17世紀、スウェーデンは領土拡大によってヨーロッパの中で大国の仲間入りを果たす。フィンランドの農民はスウェーデン本国の農民よりも多く課税・徴兵され、苦難の時期あった。

大北方戦争(1700年~1721年)は、スウェーデンに対抗してロシア、デンマーク・ノルウェー、ポーランド、ザクセンが協同して戦った。
1713年~1714年には、フィンランドの大部分はロシア軍の占領下に置かれた。このロシア占領時代(1713年~1721年)を「大きなる怒り」の時代と呼ばれる。

大北方戦争でのカール12世の戦死の後(1718年)、絶対王政の時代は終わり、政党政治の時代へ移っていく。

この時代は非常に圧政下にあったことが伺えますね。怒って当然。

スウェーデン統治下の恩恵

スウェーデン統治下の恩恵の1つとして、フィンランドの知識人が生まれ、フィンランドの独自性について考察する土壌が育まれたことが挙げられる。1640年に設立されたオーボ王立アカデミーから多くのフィンランド知識人が誕生する。

後の「ヘルシンキ首都移転(1812年)」や、「トゥルク大火(1828年)」を受け、オーボ王立アカデミーはヘルシンキへ移転。1917年のフィンランド独立と共に現在のヘルシンキ大学となります。
ちなみに、オーボがスウェーデン語で、トゥルクがフィンランド語。
ちなみにちなみに、トゥルクにオーボ・アカデミー大学があるみたいですが、これはまた別物のようです。(ややこしい)


スウェーデン統治時代の教育

13世紀には中心都市オーボ(トゥルク)などに教会付属の学校が設立され、商業都市には、教会付属ではあるが、商人育成を主目的とした学校が設立された。学校での教育はすべてラテン語。

1620年、スウェーデン本国で学校教育法が施行。
フィンランド域にも、
 初等学校(1or2学年制)
 中等学校(4学年制8年間)
 高等学校(4学年制3年間)
 大学
という教育制度が導入。いずれも学校数が少なく、学費も高かったため、当時の子どもの大半は学校に通っていなかった。

1686年、スウェーデン本国で施行された教会法に教育の義務が規定され、教会でスウェーデン語あるいはフィンランド語の基本的な読み書きを教える。とりわけ農村部ではこの習慣が最近まで残っており、現在の70~80代のフィンランド人の中にも該当者がいるとのこと。

■ロシア領時代

1742年~1743年にはロシアがフィンランドのほぼ全土を占領する。この占領期間は「小さな怒り」の時代と呼ばれ、ほとんどのフィンランド人はロシアへの忠誠を誓った。

また怒っているのだ。
しかし、このロシア領時代は、現在のフィンランドに至る上でも重要な時代であった気がします。

フィンランド戦争(1808年~1809年)をきっかけに、1809年から100余年、フィンランドは北欧から切り離され、ロシア領として過ごす時代を迎える。

ロシアによるフィンランドの初期統治では、身分制議会での議会・議員の地位の約束などフィンランド人の従来の身分の保障がなされ、信教の自由も約束された。また、ロシア統治下でも経済は分離して扱われ、フィンランド独自の通貨の発行・流通が許された。

ロシアによる初期統治は寛容であったことが伺えます。


◆自由化の時代

クリミア戦争(1853年~1856年。フィンランドでは「オーランド戦争」とも呼ばれる)でのロシアの敗北以降、アレクサンドル2世はフィンランドの自治をより広範囲に認め、「自由化の時代」をもらたらした。ヘルシンキ中心部にあるセナーッティントリ(元老院広場)の真ん中にアレクサンドル2世の銅像がある。

クリミア戦争やポーランドの反乱後の1863年、ロシアはフィンランドの政治的安定を図って半世紀ぶりにフィンランドの身分制議会を召集すると、政治的グループが生まれる。フィンランド語の公用語化を目的とし、フィンランド語の「農民文化」を自分たちのアイデンティティとする「フェンノマン(フィンランド人気質)」が登場する。

その「カリスマ」的存在であったスネルマンは、フィンランド独立後の1923年にフィンランド銀行前に銅像が立てられた。

銅像が2体出てきました。こういう時代背景を知ると、銅像に与えられた当時の人たちの思いが少し伝わってくる気がします。

ロシア統治下での文化運動は、フィンランド語推進運動と重なりながら「トゥルク・ロマン主義」から「ヘルシンキ・ロマン主義」へと発展。

現在では国民文学として認知される『カレワラ』は、1880年代に民族文化を象徴する存在になり、カレリアニズムと呼ばれる「フィンランドのルネサンス」時代を生み出し、さまざまな芸術に大きな影響を与えた。

アレクサンドル2世の寛容な治世でカレリアニズムが生まれ、この民族文化のエネルギーが独立の結果をもたらしたとすれば、「文化がいかに社会で捉えられて政治と係わっていったか」という視点もまた、重要なんだろうと思いました。
参考:北欧建築・デザイン協会(https://sadiinfo.exblog.jp/24954079


◆ロシア化政策の時代

1880年代から1914年の第一次世界大戦開戦までの時期は、「ロシア化政策の時代」と呼ばれる。これまで享受してきたフィンランド大公国の自治は制限され、ロシア帝国に組み込むための政策が実行された。

1899年に、フィンランドに関係する法律は今後ロシアで制定できるとする「二月宣言」が発布されると、フィンランドではこの宣言の撤回を求め、署名運動やストライキが行われた。

再び、締めつけられる時代が到来しています。
要因としては、統一したドイツの脅威への対策が大きいようです。

1906年、議会法の制定によって、身分制議会が廃止され、翌年には初の普通選挙が実施される。被選挙権を女性が獲得したのはフィンランドが初めてだった。この普通選挙によって、有権者は10倍の130万人に増え、そのうち90万人近くが投票した。

(言わずもがなですが)日本の普通選挙導入は1925年、25才以上の男性に選挙権が与えられ、投票率は約72%。フィンランドでは、24才以上の男女に参政権が与えられ、その他は上記のとおり。日本の完全普通選挙化は1945年なので、この点では「歴史的分岐」に違いが見られました。

新たな議会が創設されたものの、ロシア皇帝には大きな権限が残されたままで、第二次ロシア化政策がはじまる。


◆ロシア統治時代の教育

1850年前後、大地主や工場主が使用人や従業員の子弟を教育するために民衆学校が各地に設立された。1866年に6年制の公立初等教育機関となる。

1898年には「すべての国民に教育を受ける権利を保証する」との宣言がなされ、各地で民衆学校設立の動きが加速化。しかし、「庶民は教会で」という意識が強かったため、無償で教育を受けられたにも関わらず、19世紀末の就学率は30%程度だった。

「この頃の日本は」というと、1890年に教育勅語が発布されています。

中等教育について、大都市には公立の男子・女子中等教育学校が設立。いずれも高額の学費がかかるため、都市部の富裕層の子弟しか通うことはできなかった。

1863年、フィンランド語とスウェーデン語が対等な地位にあることが宣言。1902年にフィンランド語も公用語となる。

19世紀末頃から民衆学校の共学化が進む。1914年以降、中等教育は5年制の中学校と3年制の高校に分割される。

何となくですが、教育史的な意味では、独立後にダイナミズムがある気がします。


◆革命下の独立宣言

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、フィンランド国内にも緊張感が広がる一方で、独立をめざす動きも生まれた。

ロシアでは1917年に十月革命が起こり、ウラジミール・レーニンが率いるボリシェヴィキが権力を握ったことで、情勢が急変する。

僕は高校で世界史Bを選択してなかったのですが、あの「レーニン」です。

ロシアとの協議を必要とするかしないかの論点で、独立の形をめぐってフィンランド国内の意見はなかなか統一されなかったが、議会投票によって、ロシアとの事前協議なしでスヴィンフッヴド(ブルジョア政党)らが提案した独立宣言を発することが決定される。

1917年12月6日、スヴィンフッヴドはロシアからの独立を宣言。レーニンらと交渉し、ボリシェヴィキ政権から独立の承認を獲得する。

ボリシェヴィキ政権はなぜフィンランドの独立を承認したのか。
①ボリシェヴィキの綱領にはすべての民族の自決権が謳われていたこと。
②(ロシアに続いて)フィンランドでも革命が起こり、ともに社会主義の国家を建設するだろうとレーニンは目論んでいた。
ことが起因しているとのことでした。

第一次世界大戦中の独立達成は、大きな社会不安とともにあった。
元貴族や資本家、富農など「持てる者」と、労働者や貧農など「持たざる者」の溝は深まり、その対立は独立早々、敵対関係にまで発展することになる。

やったー!独立!
この後、新章「揺れる独立国家編」に突入です!


>>「フィンランドの探究vol.2」に続く

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