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【僕がなぜ店を始めようと思ったのか】

コロナ禍。緊急事態宣言の延期が決まってまだ落ち着かない日々。20時過ぎても営業している店に対し、とうとうマチにビラまで配る自粛警察が出たと聞いた。どっちもどっちだが、飲食業界は確かに助けられている。そこを羨み妬ましく思う声もあるだろう。ただ諸手を挙げて喜んでいる暇はない。我々を救ってくれるのは、日々の来訪者からの対価が本分。組織に守られる立場でもない。肝に銘じ、一瞬でも店に立てる喜びを噛み締める。

先のnoteに書いた内容にコメントがあって、そこで返した文章から、僕は改めて店を始めるきっかけを知った。返したのはこんな感じだった。

『僕が店を始めたきっかけは、学生時代に京都の繁華街でバイト(バーとかディスコとか)してて、マチの先輩たちにいいことや悪いこと教えられて
背中を見せてくれる憧れの大人がいっぱいいて、(僕はギリギリ知らないけど、ワールドの最上階のヴィアンヴィ?ってかっこよかったらしいね✨🍸)行儀良くかっこいい振る舞いを、また他の世代に伝えたいって思ったから。ホテルでバーテンダーやギャルソンしてた頃には、それはマチの若者には直接伝えられない部分だったしね。

それも以前○○ちゃんがSNSで書いてて同感だったけど、少しコロナが収束に向かった時に、マチの一部の店にはわんさか人が押し寄せてちょっと怖いノリで飲んでる人がいたでしょ。あぁなっちゃうと、やっぱり飲食業の印象って悪くなる。背中、姿勢を見せられる大人になりたいなって思ってます。

いつかまた飲みましょう。それで救われるなら、僕らの存在意義もある。』


…で、カッコよく書いてはみたが、僕はどういう大人の背中を見てきたのだろう?と、もっと細かく思い出してみることにした。備忘録だ。

かなり羅列し長いのでくれぐれもお暇な時にお読みください。
大学入学から、社会人2、3年目くらいまでの話です。

           ◆ ◆ ◆

昭和58年、西暦1983年、18歳の頃。体育大学ラグビー部に入って1年は丸坊主というとんでもないハードル(京都では中学丸坊主制度なかったから)に、同期のええとこのボン北川の紹介で美容室
(ハサミで切るかバリカンかの違いは大きかった)で人生初の丸坊主にしてそこのオーナーに玉撞き(ビリヤード)の少々怖い世界に連れて行ってもらってハマって、大学のロッカーにキューケースを入れて練習が終わってから阪急電車(まだ大学は阪急茨木あった)に飛び乗り河原町でカフェバーとディスコ(モテそうな黒服のつもりがややこしい客を追い出す係だった)でバイトしまくってから(同志社ラグビーは龍馬通のDEN-ENでオシャレに合コンしてたのに)DD系列のバーか、亡くなったツネさんのアルペジオかテリー&ドリーさんのUP'sに行くか、玉を撞くなら下鴨本通のパチンコ屋2階の安い学生相手の店か烏丸紫明の関さんとこか腕試しに祇園縄手ビリヤードとかで朝まで撞いて(木屋町グリーンは飲んだ帰りに適当ビリヤードだけ)、ラグビー練習ない時はDCブランドが全盛期の影響でJUNとDOMONブティック(味びるとBALの間と蛸薬師にあった)で販売員のバイトもして、期間限定でラグビー同期の村上と観葉植物の交換配達のバイトまでもして祇園のクラブ(女性のいる方)やラウンジの中身を垣間見て、組事務所の植木交換に入ると電話番が中学の同級生で驚いて、バイト先カフェバーのあった三条木屋町の南側に安藤建築TIMESビルのY'sの店長が休憩に飲みに来たコーヒーの置き方がカッコよくて(今でも僕は真似てて、同じ時代そのビルのレディスブランドの店長を銕心のカーコさんがやってたと神戸に来てから本人に聞いて驚いて)、そのうち四条マハラジャオープニングスタッフの先輩金城さんが「BEAMS」(ディスコじゃない)を北山通に出して、そことカフェバーのバイト行き来してた立命館の林田くんが同い年だったことでBEAMSやRayBEAMSの連中と遊ぶようになって、そのスタッフにBLACK BOTTOM BRASS BANDやKyoto Jazz Massiveのホーンセクションの男がいて、遊びメンバーの中の竹千代さんがAQUAのカリスマ美容師になって、北山のキャサリンハムネット店長大沢くんがのちにDJソロプロジェクトMONDO GROSSOやるなんてことになって、三条河原町マハラジャClub(マハラジャのカジュアル版)であったBEAMS京都1周年パーティーのショーモデルをやることになって(当時CokaColaのCMに出てるモデルも一緒で)緊張してたら僕は動かないマネキン役で着せ替え人形になっていて、気がついたらその合間にラグビーやってる腰掛け学生みたいになって(ここはホントもっとちゃんとやっておけば良かったと)でもおかげでちょっと変わった大学時代を送れたりもして、そうこうしてる間に10歳年上のコムサデモード店長と付き合ってて浮かれてたら6歳年上の祇園の青年実業家と結婚するといきなり告白されて、ラグビー本気に取り組もうと思ったら高校常勤講師の話が来て(1987年沖縄国体ラグビー成人男子の教員枠で行かないかって言われて)山科駅北の洛東高校(卒業生は近藤正臣、中退生は小林薫)で週13時間保健体育の学科と実技教えて(毎日が予習で)学生ながら給料もらって、その後すぐに卒業を迎えて、国体話を尻込みしてお断りして、学生期間宴会バイトしてたホテルにお世話になって、次にヤマハのリゾート施設(三重や小浜島)に転職して、たまに京都に帰ったら四条木屋町のイマージアムにあったクラブ(女性のいない方)TRUEに行きながらすぐ下の階のプールバーで得意げにイキがってて、まだ繋がってたBEAMSのメンバー数名がその後にUNITED ARROWSの偉い人になってビックリして…

            ◆ ◆

あれ?カッコよくて憧れる大人のシーンが出て来ないな。

ここでは書かなかったけど、書きながらいろんな風景が思い出せた。要するにあの頃は、マチの先輩の背中や振る舞いを「見て」学んだのだ。手取り足取りじゃない。目で確認したマチとヒトに教えられ、時に救われた。

画面から取り出す知識は世界中無限にあるけれど、その時そこでしかできない実経験は未来の自分を創る。むしろ、デジタルなどない世界だからこそ、未体験を貪欲に触れられた。VIPルームにいる人の全てが憧れではないことを知り、イェーイとみんなに大枚叩いて振る舞う人が実はカッコ悪くて、論破しようとする男はみっともなくて、モテる男は女性に勝とうとしないということが見えた。ここだけの話と方々に触れ回る者や、有名著名人に擦り寄るばかりの輩もいた。飾らないシンプルさが難しくも潔いと知った。

挑戦をやめた大人と、チャレンジを続ける大人とは本質的に違っていた。後者でありたいと思えば、それは周りから子供だと言われる人に多く見られた。僕の記憶の中の登場人物は、そういう人達で溢れていたのだ。

背中と姿勢を見せてくれたマチの先輩。

令和でもコロナでも、そんな人がいる店、シーンを創り続けたい。


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