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「自分が何をやりたいか」「自分は何をしたら幸せに感じるのか」 汎用的な問いだが、自分の中で答えを出せている人は少ないと思う。 自分の中では、歳をとるごとにますますわからなくなっている感覚すらある。 人間は経験が溜まったり、少し学ぶことが増えてきたりすると、「自分がこれをやりたいかもしれない」という気持ちを潰す言い訳が容易に思いつくようになるのだろう。 例えば、「お金がないから今はできない」「タイミングが悪い」「自分の能力には見合っていない」「時間がないからできない」といっ
『君たちはどう生きるか』を観た。 しばらくしたら専門家が本格的なレビューを書くのだと思うが、今の段階では簡単なレビューしか書かれていない。ちらりと見たレビュー記事が「ファンタジーへの回帰」を称賛するというもので、あまりにも素朴すぎると感じたので、僕も感想を書いてみたい。 一度見終わった直後に走り書きしているので、固有名や記憶違いがあるかもしれないが、その熱だけでも留めておきたい。 宮崎駿の自我 空襲警報が高らかになり、燃え尽くす街を駆ける少年の映像。冒頭の1分ほどの映像
年配男性に比較的よく見られるように思う「呪い」。他人と向き合う際、「へりくだる」と「なめられるまい」のニ種類しかないように思い込んでる人を見かけることがある。だいたいそういう方は、仕事人間で来たご様子。 会社で営業していれば、お客さんに気持ちよく過ごしてもらうために「へりくだる」必要があるのはご存知の様子。これを続けていればお客さんとは良好な関係を続けられる。ただしこの関係は、相手を上位に置き、自分を下位に置く関係だから、そんな人間関係ばかりだとつらくなるらしい。 で、「
先日イギリスの首相戦でリズ・トラスが下のような発言をしていた。 ほとんどの日本人はとても日銀の政策が成功してるようには見えていない(と思う)。しかし、半端ではない物価上昇によりエアコンすらもまともに使えない状況の欧州諸国にとって、CPIの上昇率が比較的緩やかな日本の状況はうまく行っているように見えるのだろう。 いつの時代も他国の状況は自分の国より好ましく見えるものだ。 「隣の芝は青い」というが、人間の本質をよくついた言葉だな、と思う。 なんなら「隣の芝はエメラルドグリ
過去のどんなに辛い、恥ずかしい経験でも、ある程度時間が経ってから思い出すと笑いに昇華されることがある。 なぜ時間が経つと笑って思い出すことができるのだろう。 おそらくその答えは、「笑い」は出来事と自分の間に一定の距離があって初めて成立するものだからだ。 すなわち、「笑い」とは主観的にならざるを得ない状況では、発生し得ない。言い換えると、自分との距離感が近すぎると笑えるほどの余裕が生まれない。 ともなると、距離感が遠ければ遠いほど、客観的に見れるものほど、笑いが生まれや
近年インターネットやSNSの発達によって、人の過去の発言がトラッキングできるようになってから、人に対する「一貫性」がより強く求められています。政治家が数年前にある政策について賛成していても、選挙前になって反対側に回ろうものなら、これでもかというほど批判されている姿を私は度々目にしてきました。 芸能人が過去に問題を起こそうものなら、その人の現在の姿とはお構いなしに「こういう人間だ」とレッテルを貼り、徹底的に叩きまくるというのも日常茶飯事です。 このような批判は「人間は常に一定
人はなぜ死ぬのか。 「死」は恐怖の対象であり、一般的に考えることも憚られる概念でしょう。 自分の大切な人が亡くなれば当然辛く悲しいですし、その人との時間が永遠に戻らないという事実に愕然とさせられます。 「死ぬ」「死なない」で言ったら、当然「死なない」方がいい。(少なくとも自分はそうです。) しかし、どんな偉人も、どんなにお金を持っている人であっても僕は死なない人を聞いたことがありません。死は人類共通の無情な到達点として存在しています。 これだけ誰しもが直面する課題である
「幸せなのが、結局一番だよね。」 「それって、お前が幸せって思うかどうかじゃない?」 昔から誰かに悩みを相談するたびに言われてきた。 その度になんとなく納得したような気にはなるものの、どこか掴みどころがなく、もどかしい思いを幾度となく経験してきた。 「幸せなのが一番って言うけど、あなたにとっての「幸せ」ってなんですか?」 こんな質問返しを食らわせれば、グーパンが飛んでくると思ったので、口には出さなかったが、ずっと心の中では感じていた。 みんな「幸せ」って言葉に逃げている