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一貫主義の功罪

近年インターネットやSNSの発達によって、人の過去の発言がトラッキングできるようになってから、人に対する「一貫性」がより強く求められています。政治家が数年前にある政策について賛成していても、選挙前になって反対側に回ろうものなら、これでもかというほど批判されている姿を私は度々目にしてきました。
芸能人が過去に問題を起こそうものなら、その人の現在の姿とはお構いなしに「こういう人間だ」とレッテルを貼り、徹底的に叩きまくるというのも日常茶飯事です。

このような批判は「人間は常に一定である」ということを無意識に仮定することにより生じています。そのため、「過去に問題を起こした人は、今も問題があるはずだ。」「過去にこのような考えを持っていた人は今も同じ考えを持っているはずだ」といった推論が成り立つのです。

確かに、「一貫性」は人の「信頼」を勝ち取る上でとても重要な性質です。

なぜなら「信頼」は、自分の想像通りに特定の他者が思考・行動する時に発生するものであり、「一貫性がない」すなわち「不確実性が高い」人間は自分の想像するように思考・行動する人間とは真逆だからです。

しかし、ここで再考したいのは、一貫していないことは、その信頼できない性質ゆえに、「悪」として排斥されるべきなのか、という問いです。

そのことを考察する上で、人間の変化についてもう一歩深く考えてみます。
人間は外界との交流を経て絶えず自分を更新しています。それを証拠に「昨日の自己」と「今日の自己」は全く同じではないはずです。自分の意思とは関係なしに周囲環境は動的に変化していき、それに合わせて自分も変化してしまうので、これはいわば当然かもしれません。

そのため、外界との交流の過程で人間は絶えず変化せざるを得ません。その過程で新たな発見にも巡り会うため、自分の思考・態度を変容させたくなることもあるだろう、というのが私の主張です。

しかし、自分の思考・態度を変容させる過程で、「一貫主義」の問題が立ちはだかります。社会はあなたが変化することを簡単には許容してくれません。

社会の思考というものは自分の中にも多少なりとも内面化されるものですから、社会のみならず自分自身も「矛盾する自己」を許容できずに葛藤することになります。

人間の変化とは別の、一貫性のネガティブな論点として、自分の中の一貫性を崩せないが故に相手の意見を受け入れられず衝突することがあります。もと陸上競技アスリートの為末大さんも同様のことを論じていたので、引用しておきます。

あの人は首尾一貫しているということはとても格好良く感じますが、首尾一貫したもの同士がぶつかって争いになることは世界を見渡すと良くあります。このような争いは落とし所が極めて難しいと感じます。こちらは向こうの行動の中に悪を見ますが、向こうはそれを「良いこと」だと思っているからです。「良いこと」同士が相手の中に悪を見た時のぶつかり合いは、そこに信念が宿っていればいるほど妥協を許さず行き着くところまで行ってしまいます。このように現実社会において正論をどこでもどの局面でも貫き続けることはたいへん生活しにくい生き方になります。[1]

誰か特定の人との長年の確執がある人はよく、「今更遅い」などと言ったりします。おそらくこれは「過去の自分と今の自分で態度や思考を矛盾させたくない」という一貫性を固持したい感情から来ているとも言えそうです。

一貫性と人間の変化、一貫性と衝突、の二つの論点を考えた上で、一貫していないことは「悪」として排斥されるべきなのか、という問いに戻ります。

私の答えは否です。

先に紹介したように、人は日々変化し続けるのだから、時に自分の意見を変えたくなることもあるはずです。
でも、それは人の目だったり、何しろ自分自身に嘘をつくような感じがするので、なかなか難しい。
しかし、そのような時に自分の中の「非一貫性」を受け入れながら、自分を再構築し前に進む態度こそが本当の「強さ」なのだと思います。

自分の考えと合わない他者がいるかもしれません。また、どうしても受け入れられない他者もいるかもしれません。
そんな中、自分の一貫性を崩してでも他者の考えを理解しようとする・理解できることが本当の「寛容さ」なのだと思います。

「みんなが一貫的であり続けられるわけではないよね」ということが社会全体でもっと認知されていけば、お互いをより許容できるようになり、現代社会が抱える「生きづらさ」を少しでも軽減できると思います。

[1] 為末大, 一貫した私という人工物, note, 2021年12月18日, https://note.com/daitamesue/n/n6ce6f15fe303

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