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自己肯定感と口癖

お立ち寄り頂きありがとうございます。

私の口癖は、六対四……いえ、七対三くらいの比で、「ごめんなさい(若しくは「すみません」)」と「ありがとうございます」だという自覚があります。
とにかくよく謝ります。常に悪いことをしていると言うよりは恐らく、極度の自己肯定感の低さ――と言うか自己肯定感の「無さ」の現れです。
何かが起きて、そこに対して自分に否が無くても、自分が悪いことをしたような気分になってしまいます。それもまたある種の自意識過剰なのでしょうけれども。
結果、謝ってしまうのです。

例えば買い物でレジの列に並んでいて、割り込まれたとき、口をついて出るのは「すみません」なのです。私が列の邪魔になっていたのだろうな、という風に考えてしまいます。
こうして文章にしていると、いやそこは私が謝るところじゃない、と客観視できるのですが、実際にその場面に遭遇しているときには、罪悪感に苛まれることしかできないのです。

損な性格をしていると思います。
この性格が形成された背景には、虐待を受けて育ったことも無関係ではないでしょう。ことあるごとに母から「あんたさえいなければ皆幸せだったのに」と言われ続けていたので、私は悪い子なのだと信じていました。
不登校になって連れていかれた病院で、『カウンセリング』を行った医師は毎回、私の話を聞くこともなく「虐待の連鎖を見事に断ち切った、こんな素晴らしいお母さんはいないよ」と無条件に母の味方をしたので、長らく自分が虐待を受けているという認識を持つこともできませんでした。その医師から性被害を受けていました。それは二十歳を超えるまで続きました。異常に慣れすぎて、それがおかしなことだと気付けませんでした。

結果として、状況を冷静に正確に判断する能力は少しも身に付かず、ただただ、この世に存在していることに対して罪悪感を抱えて歩んできた人生です。

ただ、状況に恵まれなかったことは事実ですが、決定的なミスはやはり、自分で異様さに気付く、ということができなかったことです。鶏が先か卵が先かといった問題に似てきてしまうような気はしますが。

そんな歪んだ道を歩んできましたが、救いは「ありがとう」が言える人間でいられたことです。
ごめんなさいを言うことが圧倒的に多いですが、ありがとうも忘れないようにしています。
そこに気付けてからは、意識して「ありがとうございます」を言う隙を探しています。
不必要、不適切な場面でまで私が謝ってしまうので、却って相手に気を遣わせてしまうことも多いはずです。同じ言われるなら、ポジティブな言葉の方が喜んでもらえるのでは、と、「ありがとう」のタイミングを探りつつ生きるようになりました。感謝の言葉は、口にする方も前向きになれますしね。自己肯定感も育つような気がしますし、素敵な環境を育てる種蒔きのようにも感じられます。

私の口癖の比率を、もう少し「ありがとう」が上回ることができるように、少しずつ自分を好きになっていきたいものです。

以上、口癖に関するお話でした。
お読み頂きありがとうございました。

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