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学校と私

お立ち寄り頂きありがとうございます。
さて、これまでの記事でぼんやりと触れてきた気がするのですが、私は不登校経験者です。合計四度の不登校をして、高校は入ったものの病を得て、卒業せずにドロップアウトしました。
勉強をすることは好きでしたが、学校は大嫌いでした。今回は最初の不登校を、少し語ろうと思います。

一番最初につまずいたのは、小学校三年生の夏休み明けでした。
いじめを受けていて人間関係に疲れ果てていたこともあったのですが、でもそれは保育園からのことで、変に慣れてしまっている自分もいました。それよりも大きなストレスとして思い当たるのは、担任の態度です。
当時の担任はいつでもイライラしていて、クラスの男子が少しでもふざけたりすると怒って叫んで、私は彼女の笑顔を思い出すことはできません。
担任はとても厳しくていつも張り詰めていて、やたら他人に共感してしまう私は常に、その緊張感の中にさらされていました。
私が怒られているわけではないのに、クラスの誰かが怒られると、自分が怒られたと思い、その都度非常に強い恐怖に襲われました。

そこへ、夏休みです。一か月以上にわたる長い休暇です。つまりその間、あの張り詰めた場所に居なくて良かったわけです。
家では家で、母からの虐待がありましたが、担任との間の緊張感よりはまだマシでした。

思えば、それが引き金でした。

始業式の日、私の体は思うように動きませんでした。
嫌だ、嫌だ、またあの空間にさらされるのは嫌だ。先生にはもう会いたくない。私をいじめてくる同級生にも会いたくない。頭が痛い。お腹が痛い。動けない。辛い。辛くて仕方ない。学校にはもう行けない。だれかたすけて。

それが最初の不登校でした。当時はまだ不登校は珍しく、両親は目に見えて焦りました。どうにか学校に行かせなくてはいけない、その必死さも大人になった今は少し理解できるのですが、まだ九歳になったばかりの私にはひたすら重荷でした。

「学校に行かないと教育委員会の偉い人に怒られる」「頼むから〇月〇日からは絶対に学校に行くと約束しなさい」「お母さんをどれだけ苦しめたら気が済むの」「あんたは本当にどうしようもない子」「どうして当たり前のことができないの」「学校に行かないのなら、頼むからもう死んでくれ」
今となっては母も必死だったのだと判るのですが、毎日掛けられる言葉は、どんどん私を追い詰めました。

その内に『児童精神科医』のところへ連れて行かれ、『カウンセリング』が始まりました。その医師は母のいるところでは、母がいかに『虐待の連鎖を断ち切った素晴らしい母親である』かを説き、母のいないところではやたら性的なことを私に教え、異様なスキンシップを強要し、「これが終わらないと帰れないよ」「誰にも言っちゃだめだよ」という形で、私はそうと気付かずに性被害を受けていました。

結局すべてを諦めた私は、その時は五か月で学校に復帰しましたが、『カウンセリング』は二十歳を超えるまでそのまま続きました。数年おきに不登校を繰り返してしまったので、『カウンセリング』は終わらなかったのです。

今でも時々思います。どの分かれ道でどっちを選んでいたら、この苦痛を回避できたのでしょう。
でも恐らく、その時の自分の精一杯を選んできたはずなのです。
多分いくつも道は間違えました。だけどそれでも、私は今こうしてここにいます。そのことまでも否定する必要は無いと思いたいです。家族も私も、誰もがただ一生懸命だったのです。

長くなってしまった上に、どうにもまとまりません。
また機会を作って、深堀りしてみたいと思います。全然語り足りませんでした。そのときはまたお付き合い頂けたら、嬉しいです。

ここまでお読み頂き、どうもありがとうございました。

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