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チェンソーマンのOPパロが全く分からなかった~僕らの「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」~

アニメ『チェンソーマン』のOPの映画パロディが全然分からなかった。いや、もちろんそこまで映画好きと言うわけでもないから『女優霊』とか『コンスタンティン』のパロディが分からないのはそれは別にいいんだけど『パルプフィクション』のパロディが分からなかったのが自分的にとても許せなかった。

ちなみに、この記事は終始この話に尽きる。

最終的に、この記事を書くことで自分で自分の事を手慰められれば幸いだと思っている。
もし僕と同じような人がいたら、救われてくれたらいいと思うけれど、自分と同じようなことを思う人が、自分と同じようなことを自分より先に言語化していたら、僕だったらすごく病むと思う。
だからやっぱり僕だけ救われればいいと思うし、こんなことを考えたこともなかった気のいい女の子がこの記事を読んで僕にちょっとでも好意を抱いてくれれば最高だし、そこだけを目標にする。

僕はパルプフィクションが映画のなかで一番好きだ。本当に好きなのだ。どれくらい好きなのかは、これの一個前の記事を参照してもらえると嬉しい。脱線は多いけれど。

2022年10月11日、僕は大学院に向かい電車に乗り込んだ瞬間に自分がスマホを忘れたことに気付いた。4年ぶり幾度目かのこの失態に最初のうちは焦りはしたが、事態を冷静に見極めてあとは諦めてしまえば、そこまで気を病むことでもない。あと普通にパソコン持ってるから学校に入ってWI-FIさえ確保してしまえばこちらのもの、という感じ。
久々に電車がガタンゴトンと音をあげているのを聴いた。その日僕は三時間も寝ていなかったのだけど、なかなかに心地が良かった。辿り着く場所は同じでも、その過程の見え方が違えば、結果の見え方も変わってくる。ミステリー小説の犯人だけ先に知って読んだ気になっているのと、ヒーヒー言いながらでも頭から全部読んだすえに犯人を知るのとでは、やはり読後感が違う。ミステリー小説全然読んだことないけど。

犯人はお前だ!

そんなこんなで、三木那由他さんの『会話を哲学する』を100p以上読み進めることが出来、とてつもなく健やかな気持ちで登校することに成功した。

その日は院の授業で研究の進捗を発表しなければいけなくて、そのせいで僕の睡眠時間は三時間になり、朝の準備で焦ってスマホを忘れてしまったわけだが(犯人はお前か)、色々と刺激を受け、笑いもそこそこに取れ、失っていた研究へのモチベも取り戻すことに成功し、友人にウルトラセブンを布教して、ここ最近のなかでは目を見張るほどに充実した一日だという実感が自分の中に確かにあった。そしてセブンを布教した友人(表記が面倒だから仮称アンヌさんとする)と2人でエレベーターに乗っている間、僕はアンヌさんから嬉しい知らせを聞く。

「あ。今日、チェンソーマンじゃん」

そうじゃん!
待ちに待っていたはずが失念していた。恐らく睡眠不足のせいだ。そのおかげというべきか、棚に置き忘れていたぼた餅の存在を腐る前に思い出したかのような嬉しい気持ちで「今日はチェンソーマン」小踊りをエレベーターのなかで舞ったりもした。

ウルトラセブン『史上最大の侵略 後編』より

岡田斗司夫の『シン・エヴァンゲリオン』の解説で一番印象に残ってるのが「庵野は儀式をずっとやってる」というやつだ。「オマージュはおまじない」そして、「何かを得るには、必ず何かを失わなければならない」とかそんなようなやつだ。だからシンジは仮称アヤナミを失わないとエヴァに乗れないし、各々のキャラクターが幸福になるには各々のエヴァを失わなければならない。

僕はその日中、スマホを自分の生活の中から奪われることで、BETTERな日中を過ごすことができたわけだし、あの岡田斗司夫の解説は実生活にも通ずる普遍性があるのかもしれないと思った。

そんな気持ちで学校を出て、「よし帰りの電車で『会話を哲学する』を読み切るぞ」と息巻いていたが、普通にウトウトしてしまって読めたものではなかった。パンクロックを聴いてるわけでもないのにリズミカルに首を上下に振りながら最寄り駅に着く。
そして公衆電話でもって母親に電話を掛ける。
言ってなかったけど僕は車椅子ユーザーだから駅から自宅までは親に送迎を頼まなくてはならない。

受話器の重さを久々に感じ、ボタンを押し込むたびに鳴るくぐもったピッという音になんだか奥ゆかしさを感じながら、僕は15年前のことを思い出していた。

15年前、8歳の僕は東京のとある病院の小児病棟に手術のため4か月ほど入院していた。両足の股関節を計8カ所を切る結構大掛かりな手術を敢行した。術後は普通に足が痛いのもあったが、股関節に負担を掛けない様、股関節から足の先までギブスで固められ、さらにそれでは飽き足らず右足のギプスと左足のギブスとの間には長い角材が噛まされ、上から見るとアルファベット大文字の「A」みたいになっていた。
下半身を大文字Aにされた8歳の少年なんて、字面だけ見てもなかなかに悲惨だが、僕にとって一番辛かったのは両親と隔離される入院生活だ。親には仕事があるし僕には妹がいるから、彼女のためにも両親は茨城の実家に帰らねばならない。頭では分かっていても、8歳の4ヶ月間の「孤独」は結構心に堪える。
そんな僕に病院の中で許された家族との交流は、20時から21時の間だけ許される病院の公衆電話から行う家族との電話だけだった。だから僕は母親の電話番号をもう血眼になって覚えたものだ。しばらくやっていると、公衆電話のボタンが奏する母親のメロディのようなものを耳で記憶するようになって、目を瞑っていても電話をかけられるようになるまで成長した。
その一時間の間だけは、病棟中の子供が一つしかない公衆電話の前に一列に並び、家族との束の間の交流を礼儀正しく待っている。泣き出すような子が毎日一人はいたし、受話器を離そうとしない子もいたけれど、それを非難するような子は一人もいなかった。今思うと美しい時間だったなと思う。
誰もが孤独を抱え、そして誰もが誰もの孤独を推し量れる。皆が少しずつ傷つきながら手を取り合える。僕が今、目下夢想する理想郷が15年前、たしかにあった。

そんなことを思い出しながら、駅ビルの公衆電話の前で母親の携帯番号協奏曲イ短調に懐かしさを引きずっていると、「駅に着きました」と伝えるべきところを「終わりました」と言ってしまい母親を少し困惑させてしまった。

何の話だったか。そうだチェンソーマンのOPの映画パロディが分からなかった話だ。

家に帰る車中、母親にご近所のおばあさんが亡くなった話を聞いた。
前日には大きく美しかったらしい満月は少し欠けて雲の中に身を潜めている。

家に着いてすぐ、リビングのソファで眠ってしまう。
母親に叩き起こされたのはその日の23時59分。僕はまた母親に頭が上がらなくなってしまった。

テレビを点け、チェンソーマンをリアルタイムで観はじめる。
そして僕はOPの圧倒的なカッコよさに胸を鷲摑みにされてしまった。
残酷と不条理、だがそこに共存する馬鹿々々しさ。終盤の、パワーが賢そうに金玉をぶっ飛ばして、デンジが敵に向かってくシーンなんか最高である。

OPより
同上


いや、というかあのOPに最高じゃないシーンなんか一つもない。
どのシーンも抜かりなく最高純度にカッコよさとユーモアと残酷さと気持ち悪さがこれでもかと詰め込まれていて、チェンソーマンのすばらしさを一分半で完璧に表現した、間違いなくアニメ史のなかでも指折りの傑作OPである。
その圧倒的なカッコよさに頭をクラクラさせていたところ、提供の文字の下にデカデカと「MAPPA」の五文字だけが鎮座する。僕はその覚悟と心意気に思わず涙をこぼしてしまった。

本編が終わり、感想ツイートをしてから、タイムラインを巡回していたところ、こんな旨のツイートを発見した。

「チェンソーマンOPの岸辺のシーン、『パルプフィクション』のパロディだね、これは分かりやすい」

同OPより
映画『パルプフィクション』より

全く気付かなかった。他にも映画のパロディが多々あるらしい。タランティーノ作品だけでも『ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド』の運転シーンや『レザボア・ドッグス』のあの主人公たちが歩いてる名OPのパロディだ、という意見も見かけた。

同OPより
映画『ワンスアポンアタイム・イン・ハリウッド』より
同OPより
映画『レザボア・ドッグス』より

そして僕は完全に気を病んでしまった。これまで何を創るにもパルプフィクションを目標にして創作を行ってきて、「パロディ元は分からないがタランティーノは監督の中で一番好き」とSNSや実生活で小声で公言し、自分の創作者としての「矜持」みたいにしてパルプフィクションに出会ってからというもの、ヒソヒソと頑張ってきた。

だが、チェンソーマンOPの曰く「わかりやすいパロディ」には気付けなかった。レザボアにもワンハリにも。というかパロディの宝庫だとも気付けなかった。エヴァでもパルプでも「ネタ元は分かんないけどこれは多分パロディだな」とは気づけたのだが。

大学で4年間演劇を学んできた。そこまで演劇にのめり込めたわけじゃなかったけど、自分が戯曲を書くのに向いてるのは分かったから、あとは好きな作品ばかり摂取してきた。
でも何者にもなれなかったから大学院に進学した。研究にヒーヒー言いながらも、色々話を聞いて、自分の知見を深めるこの生活には満足していた。

だがやはり僕はいまだに何者でもないし、手元にあるのは肥大したプライドと現実からのスルースキルと、好きな映画のパロディを発見することも出来ない浅学さと空虚な自分だけだった。

悔しかったし傷つきたくなかったから、「浅学な自分」を自虐するツイートを連投して自室に戻った。自分で自分を先んじて傷つけておけば、とりあえず他人から傷つけられることもない。

自虐ツイートに精神安定の機能はいまだ実装されていないらしく、寝転がって毛布で自己防衛をしていたところ、吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』の歌詞をパロディした自虐ツイートに俳優をやっている大学の同期だった友人からリプが来た。

あーセンスもねぇ、知識もねぇ、審美眼そもそも持っちゃいねぇ。
愛情ねぇ、あるわけねぇ。おらの好きには深みがねぇ。
おらこんな俺ァ嫌だァ〜
おらこんな俺ァ嫌だァ〜
芸術学んでたんだがなぁ〜
芸術学んで分かったのぁ〜
自身の空虚さだけだぁ〜

よし、生くぞぅ。
件の吉幾三パロ自虐ツイートより

「私の友達はみんな天才だからあなたも天才。」

泣いた。泣きながらそのリプにリプしたから何にも面白くないリプになってしまったが、それが気にならないくらいには安心できた。
安心できたから、8時間眠れた。

翌日になって、僕はチェンソーマンのノンクレジットOPをYouTubeで10周した。
そういえば、テーマ曲の米津玄師『KICK BACK』(なんて秀逸なタイトルだろう)はモーニング娘。の『そうだ! We're ALIVE』をサンプリング(?)しているらしい。一体どの部分をだろうと思ったら、
「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」
の部分だった(「しやわせ」とかもそうだが)。『KICK BACK』で「ここの英語なんつってんだァぁ?」と思っていたが、まさかの「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」だった。

僕はハロプロに明るくないのだが、(友人にハロプロ好きはたくさんはいたのに!)『そうだ!We're ALIVE』を聴いてから『KICK BACK』を聴くと、米津さんのその大胆な使い方と解釈にただただ感心してしまう。

まだ大きな夢と希望が世の中に確かにあって、努力と未来を少女たちが歌って踊って訴えれば、大人たちが心を動かされ襟首を正し前に進めた時代から、20年が経った。
いま、正面切って努力や未来を訴えられれば、「情報商材を売りつけられるんじゃないか?」と疑われてしまうのがオチだ。
だが『KICK BACK』では、改めて「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」を問い直す。だがその文脈は、あくまで暴力的で個人的な欲求を丸出しにして他者をなぎ倒した上でのみ成立する、いわば「悪い子」の「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」である。

「良い子であれ」という教育のもと僕らが生きてきた20年間は、良い悪いで言えば、多分概して見れば悪い20年だったと思う。「良い子」な僕たちは「良い子」だから無理な夢は諦めてきたし、「良い子」だから自分が損をするとしても赤の他人にも優しくしてきた。で20年経ってみて、当時「良い子」育成を先導した大人たちは、僕たちが良い子だったからといって何かご褒美を与えてくれるわけではないらしい。
世の中全体が苦しくなってきた今、大人たちは「自分らの力だけで頑張ってくれ」と言っているように思えてならない。

『KICK BACK』では誰も傷つかない理想郷を真剣に目指していた「良い子」時代を象徴するみたいなフレーズ「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」を「悪い子」コンテンツの急先鋒『チェンソーマン』のアニメOPでくどいくらいに使うことで、「もう悪い子でなければ『しやわせ』にはなれないぜ」と歌ってるのだ。ラッキーやハッピーといった言葉も多用しているが、どうにもケラケラ笑いながら大声で(おまけに誰かの鳩尾を足蹴するように)啖呵を切っている感じがある。

そんなことを考えていたら、大学の同期のグループLINEが久々に動いた。

「皆元気ですか。それだけですが、僕は元気です」

その呼びかけを期にして、堰を切ったみたいに仲間たちの近況報告が飛び交った。掌が彼や彼女の「会いたいよ」で埋められていく。

何も無い大学4年間だと思っていたが、そんなことはなかった。良い仲間はどうやらたくさん出来たらしい。それはどうやら目先で生きていると忘れてしまいがちだが、思い出した時にはとんでもない馬力のエンジンになるらしい。その証拠にもう3時間近くパソコンに噛り付いている。

誰かと比較したんだかもよく覚えていない相対的な浅学さのことは忘れることにした。

もう攻撃的な赤の他人に気遣うことはきっと無いし、世の中の悪口もちゃんと自分の中に蓄積することにした。
僕は、僕が好きな人と、僕のことが好きな人にしかもう優しくしない。
いっちょ、「悪い子」をやってみることにした。
自分と、自分が好きな人が「しやわせ」になるんならもう見境はいらない。

「俺たちの邪魔ァすんなら 死ね!」と大声で言っちゃうぞって感じ。

漫画 『チェンソーマン』第1巻より

僕がスマホを忘れたその日、アンヌさんと僕は「日本人は性善説コンテンツが好き」という話で盛り上がった。
パルプフィクションで僕が好きなのは、散々暴力で話を進めてきたのに、ラストで宗教や神が主題になり、「良い人間であろうと努力はしてる」という結論に帰結するところだ。こちらは根底に「性悪説」が通っているのである。
『鬼滅の刃』『呪術廻戦』とどちらかと言えば性善説に立った物語が多かったが、『チェンソーマン』は性悪説に立っている印象がある。
アンヌさんは『チェンソーマン』をどう見ただろうか。

気付けば、十数時間前に病んでいたことなんて忘れてしまっていた。

『KICK BACK』の1番2番は「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」のあとに「なんか忘れちゃってんだ」で締めるが、ラストの「努力、未来、A BEAUTIFUL STAR!」のあとは「なんかすっごい良い感じ」で締めている。

僕も今、なんかすっごい良い感じだ。

あとは、この文章を読んだ気のいい女の子が僕に向かって笑いかけてくれるのを待つだけである。

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