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FREEZE FINAL TRAILER の公開に寄せて~ブルース・ウィリスの胸を借りつつ~

2022年3月31日、僕が大学生と名乗ることのできる最後の日にブルース・ウィリスが引退を発表した。そしてその日の21時に某大学の某演劇学科の野郎どもで結成された劇団のようなアーティスト集団のような詰まるところが仲良し軍団である「FREEZE」の一応の最終作品(多分)となる「FREEZE FINAL TRAILER」が公開された。

「そもそもFREEZEって何?」とか、設定がどうとかストーリーがどうとか、そういう話は今日はしない。というかずっとしない。そういうことは発起人というかリーダーみたいな人(スズキくん)のインスタとかFREEZEのツイッターとか頑張って探せば見つかるはずである。今日僕はブルース・ウィリスの話をしに久々にnoteに戻ってきたのだ。

僕がブルース・ウィリスと聞くと最初に思い出されるのが『パルプフィクション』のブッチだ。パルプフィクションは僕が人生で(今のところ)一番好きな映画で、創作していて落ち込んだり行き詰ったりしたときには積極的に摂取するようにしている。レッドブルとかモンスターエナジーに近しい存在だ。サブスク時代になって、映画を「買う」という感覚は現代の特に若者の僕らにとって失われつつある感覚かもしれないが、弱冠22歳の僕でも、この映画は買った。普通にアマプラで見放題じゃなかったから、最初は「どれどれ、いっちょタランティーノ作品でも嗜んでみるかな」といった感じでアマプラで作品を48時間レンタルし(レンタル出来んなら見放題にしてよ)、そのあとひとしきり「世の中にこんなにカッコイイ映画があってたまるか!クソ!」という半ば怒りに近い気持ちを沸々とたぎらせた。そしてまたひとしきり自室のベッドの上で悔しさと憧れで両足をジタバタとさせた後、この作品をDVDで買うか、アマプラでデータだけ(この表現は正しいのか?)買うかどっちにしようか45時間ほど悩んで、電車とかカフェで観れた方が良いかということでアマプラで(データだけ)買うことにした。なんだかとってもサトリ世代な感じがする。僕は絶対レコードとか買わなそうだ。

僕は基本、洋画は吹き替えで観るからブルース・ウィリスの声を(きちんと意識してという意味で)聴いたのはこの時(数ヶ月前)のパルプフィクションが初めてだった。言うなればこれがブルース・ウィリス(完全体)との出会いだったわけだが、その声のなんと良いことか!渋く、深みと哀愁があるが、その奥に隠し持った狂気じみた「何か」を感じさせ、聞いてる側に本能的な危機感を抱かせるそんな声。
「気をつけろ、こいつはなんかヤバい」
みたいな。
パルプフィクション内でのブッチ(ブルース・ウィリス)の最初の台詞は「やってみますよ、ウォレスさん」なのだが、この一言だけで落ち目のボクサーであるブッチ(ちなみにその前のウォレスの『プライドが何だ! 傷つくだけの、厄介なものだ 捨てちまえ』という台詞も好き)の、それまでやこれからを観客に思案させる。「彼は本当に八百長に加担するのか?」と。


パルプフィクションの話を始めると長くなるし、タラちゃんファン諸兄の地雷を踏み抜く可能性があるのでここら辺でやめておこう。

もう一作品、(僕にとっての)ブルース・ウィリスを語る上で外せない作品が『ダイ・ハード4.0』だ。


これは高校二年生の時、修学旅行でイギリスに向かう飛行機の中で観た。初めての海外だったから興奮して眠れなかったのだ。おかげでイギリスに着いてからの記憶はというと、飯マズい・鳩いっぱい・ストリートミュージシャンいっぱい(地下鉄の連絡通路みたいなところでキーボードを弾いてた人がいて何だかその人だけ鮮明に記憶している)のイメージしかない。あと、僕と同じクラスの男子の制服のボタンが取れちゃったのを縫ってあげていたこれまた同じクラスの女の子がいた。良い子だなと思った。そんなこんなで、僕の修学旅行は「イギリスに行った」より「ダイ・ハードを初めて観た」の印象の方が強い。それまでの僕のダイ・ハードに関する記憶と言えば立川談志が『金玉医者』という落語のマクラで「(子供に映画観せるなら『南極物語』とかじゃなくて)『ダイ・ハード』観してやれよぉ、たまんなくなるよ、ビッグスクリーンじゃなきゃヤダって言いだすよ」と言っていたくらいしかないのだが、逆にそれが引き金となったらしく「いっちょ観てみるか」と『ダイ・ハード4.0 吹き替え版』を高度何百(何千?)メートルの上空で鑑賞するに至った。

これが面白い。どちらかというと主人公のジョン・マクレーン(もちろんブルース・ウィリス)の吹き替えを担当した野沢那智の演技が素晴らしかった。それまでの僕のアクション映画の主人公のイメージはというと、「クールで、力強く、(いい意味で)人間離れしてる」といった感じだったのだが、この野沢那智のジョンマクレーン、「巻き込まれちゃったよぉ」感が強い。
銃撃戦で「うわぁ~」と「ひぇ~」とか言いながら敵と戦うのだ。この衝撃。端的に言うとビビっているのだ。ブルース・ウィリスのあのガタイの良さで、である。そのギャップに17歳の僕の心は撃ち抜かれてしまった。「強いとはいえ俺も人間だからさぁ」という雰囲気。等身大というと少し違うのだが僕ら一般市民の延長線上に彼がいる感じがする。これもまた語弊がありそうだが、「日本人っぽさ」が漂っているのだ。

シーンは交通網が狂ってしまって馬鹿みたいな渋滞を起こしている長いトンネル。出口には敵のヘリ。

マクレーン:「FBIから要請だと? っつ~あ~お仕事は? ニュージャージーにいるガキを捕まえDCまで運ぶ、ぁ~うワケないよなぁ、(パトカーに乗り込み)大変なワケないじゃないかぁ~♪ ベテラン刑事をご指名ってかぁ?(パトカーで爆走しながら)交通渋滞だって車が飛んできたって止めらんないぜ(ヘリコプターの機銃を受けパトカーのボンネットから火があがる)チキショウ、(猛スピードのままパトカーのドアを開け)真似しちゃダメですよぅ(パトカーから飛び降り、負傷)うぇあ、あぁ!(炎上するパトカーはそのまま敵のヘリに突っ込み見事に墜落させる)」

伝わるだろうかこの、いやいやながらも体を張り、満身創痍で「お仕事」をするくたびれたオジサン感!これが当時の僕には新鮮だった。

話を戻す。そんなこんなで僕に新鮮な映画体験を与えてくれたブルース・ウィリス。彼が今日引退する。それも様々な健康上の問題、特に失語症の影響での引退。なんだかやりきれない。悔しい思いが胸を巣食った。彼の(僕以上にもっと熱心に彼に愛情を注いだ)たくさんのファンや、何よりウィリスさん本人の事を考えると心が痛む。そして痛むだけで何もできない自分の無力さと、それを嚙み殺すことしか出来ない自分自身に腹が立った。
僕には何もできない。

そんなわけで、今日という日が僕が大学生でいられる最後の日であるということに気付くまでしばらくかかった。やば、今日3月31日じゃん。てことはFREEZE のFINALの動画公開されるの今日じゃん!(やっと本筋に戻ってきた)

FREEZEのFINALを映像でやるという話(もっと言うと僕も出演するということ)を発起人というか元締めというか監督のスズキくんから聞いた時、「やっぱり僕も出るのか」というのが一番最初に浮かんだ感想だった。大学一年生(多分)のお披露目のタイミングからスズキくんの横について、(表舞台には立たないものの)あーでもないこーでもないと彼の相談にのってきて、曲りなりに四年間FREEZEという作品に携わってきただけに、「あんまり汚したくねぇなぁ」という思いがあった。

だって僕、車椅子だし、自分の身体を思ったように動かすとか苦手なんだぜ? そんな奴がシリーズの総決算となるFINALに出たりして良いの? クオリティ下がらん?

スズキ君にはこのような旨を伝えたが、彼の「お前を出すことがずっとモチベだったからさ」という一言で僕の雑念は片付いた。やらねば。

と言っても、四年の間に書き物しかしてこなかった僕が今から演技の勉強を始めても間に合うはずもない。とりあえずFREEZE全体のコンセプトでもある「マフィア」の空気だけでも摂取しておくかと考え、映画『ゴッドファーザー』(主人公マイケルの吹き替えは野沢那智なのだ、話がつながってきたでしょ?)を観ることにした。

僕の役どころは先代のボス。ならばと思いPARTⅡを何回か観た。ロバート・デ・ニーロが出てるやつだ。基本、僕が出るシーンは椅子に座っての撮影だということは事前に知っていたので、若き日のビト・コルレオーネ(デニーロ)の上半身の動きを注視して繰り返し観た。

結果はというと、映画中盤でビトに復讐される(腹をナイフで刺され、抉られてしまう)かの名シーンの時の、ドン・チッチオにそっくりだった。「うわ、やられた、やられた~」とか言ってたっけ。
自分の首の角度にまで注意が回らなかったのか、「なんか座って寝てるみたいだな」と自分が出ているシーンを観て思った。もちろんスズキくんの圧倒的な編集力と周りを固めるキャスト達全員のカッコよさ(顔面偏差値の機銃)で、僕のチッチオぶりも薄まってはいるのだが、注意して見てみるとやっぱりチッチオである。
うわ、やられた、やられた~

そんな気持ちのなか、公開前日のZOOM試写会で、僕はスズキくんの放った一言にえらく感じ入ってしまった。

「まぁ、この次皆が集まるのいつかな~って意味も込めて今回はトレーラーってことなんだけど」

そう、僕らはもう卒業するのだ。多分、今回撮影に臨んだメンバーが一人も欠けずに集結するのはもう、いつになるか分からない。
彼らは社会に出るのだ。

誰もが新しい道を歩き始め、新しい場所に行き、新しい出会いを経て、人生を紡いでいく。

僕は来年から大学院生で、キャンパスの場所こそ同じではあるものの、そこに慣れ親しんだFREEZEのメンバーはいない、誰も。
僕だけがずっと同じ場所にいるような気がしている。

「まぁ、この次皆が集まるのいつかな~って意味も込めて今回はトレーラーってことなんだけど」

トレーラー。予告。

先述の通り、この作品は大学一年生つまり僕らが出会ってから始まった。そして大学生活最後の日に終わる。そしてFINALのテーマは「別れ」

四年間かけて作り上げてきたFREEZEという組織がストーリー上でも、そして現実でも終わる。

「いつまでも一緒」というワケにはいかないのだ。

だからこそ今回、組織の分裂を思わせるようなカットも多く登場する。

また圧巻のクライマックスのバトルシーン。
現在進行形として(FREEZEという組織が生んだ)過去の因縁と決着をつけようと戦うFREEZEの面々。その最中、FREEZEという組織の一番輝いてた頃の、つまり「過去」のカットが差し込まれる。
そしてラスト、FREEZEのボスは一番の仲間でもあった敵と正対し、銃を向け合う。

未来に進んでいくには、過去を一つずつ終わらせていかなくてはならない。
前に進むには、今あるこの場所にも別れを告げなくてはならない。

今回の作品が予告編であるのには、
「俺たちの今はここで終わる。でもみんなの人生の『本編』はここからだろ?」
といったスズキくんからのメッセージが(多分もう少しクールな文体で)内包されている気がする。

卒業式のあと、一つ思い至ったことがある。それは、「僕は何のために創作をしているのか」という入学以来抱え続けていた疑問に対する解答だ。
「僕は、僕の友人にとって、いつまでも面白い人間でありたい。話題に上がるような存在でありたい」

だから僕は創作活動をしている。

「そう言えばアイツ、今度こんなの書いたらしいよ」とか「今度アイツと一緒に作品作ることになってさぁ」とか。
友人たちにとって、僕はそんな話題の主語でありたい。わがままで傲慢かもしれないが、「誰かを感動させたい」よりかは筋の通った傲慢さであるような気がする。

THE FIRST TAKEに梅田サイファーが出演した回の「クロールみたいな手の動きで韻を踏むR指定が、段々と茶色い小鳥に変わっていく動画」を見たくてYouTubeを彷徨っていた時に、THE FIRST TAKE(本家)がR指定の件のシーンをショート動画として切り抜いているのを発見した。小鳥になったりコンビニでジュースを選んだりしていない普通のR指定で安心したが、その時僕はまだ本家の『トラボルタカスタムfeat.鋼田テフロン』をフル尺で観たことがなかったために、R指定のバースのあとに続くテークエムのバースに驚いてしまった。

よこせmoney よこせfame よこせlady よこせ全部
古いものは奪っていく 俺ら流に変えてく
俺らマジで頑張る 遊ぶだけで進化する
アフロさえも嫉妬する トラボルタカスタム 

あのヒゲ面で色付きサングラスのいかにも「田舎の怖い先輩」(僕は茨城出身だから分かる)みたいな風貌の男から「俺らマジで頑張る」というリリックが出るという衝撃。(こういう人たちは「俺らマジで頑張る」とか言えないタイプなんじゃないの?)
それからというもの、最近はトラボルタカスタムばかり聴いている。

「俺らマジで頑張る」

なんというストレートさだろう。
僕はこのバースでFREEZEの皆はじめ、共に大学時代を過ごした仲間たちのことが思い浮かぶ。
次がいつになるかは分からない。でもいつかは再会を果たすだろう。
それまでは「俺らマジで頑張る」を続けていよう。(これはR指定のリリックだが)「俺らはなるべくそのまんまで」いるために。

失われていくもの、ないしは過ぎ去っていくものに対して、今を生きる僕らが出来ることは少ない。
だからこそ、僕は今年のアカデミー賞の授賞式でサミュエル・L・ジャクソンがスピーチをする後ろでユマ・サーマンとジョン・トラボルタがパルプフィクションの名シーンよろしくあの有名なダンスを踊りながら、「50ドルのシェイク」「ロワイヤル・ウィズ・チーズ」(これらもまた言わずと知れたパルプフィクションの名台詞)を言ったことに胸を震わせたし、ジョン・トラボルタの髪型が激変していて「『トラボルタカスタム』ってこういうこと?」とも思った。そしてそれら取り留めのないことを、書き留めておきたかった。
それこそが、今を生きる者が失われていくものや過ぎ去っていくものに出来る唯一で最大の手段なのではないか。
記憶し、記録すること。
パルプフィクションの冒頭、パンプキンがハニーバニーに言った「これからは記憶する人生だ」という台詞を思い出す。

野沢那智演じるジョン・マクレーンの名演や、パルプフィクションを観た時の胸の疼きや、ブッチのカッコ良さや、ロンドンのホテルで制服にボタンを付けてあげる女の子を。
寒風吹き荒むなかで撮影した最後の殺陣シーンや、笑ってばかりだった深夜練や、小さい机にマックブックを置いて、イヤホンを片耳ずつ付けながら「あーでもないこーでもない」とスズキくんが編集するのを見ていたあの時間を。

その一瞬を、ここに記録しておきたかった。
だから僕は今これを書いている。
「やってみますよ、ウォレスさん」

最後に、僕の敬愛するミュージシャン、チバユウスケの詩集『ビート』からデビュー曲『世界の終わり』の詩に寄せられたチバユウスケのコメントを引用して終わろう、僕らしく。

「なにかが終わることと、なにかが始まることは
常に同時に起こるようなそんな気分は
ずっと変わらない気がする。」

これは終わりでもあり、始まりでもあるのだ。
ありがとうブルース・ウィリス。
ありがとうFREEZE。


(許可を頂いたので、本文で登場した僕の友人というか仲間というか最高の相棒のインスタのリンクを貼っておきます。バズれ!)


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