氣狂ひ男の宣戰布告

當年とつて25、私と私の持つ氣狂ひの附き合ひは早1年を過ぎた。

今まで何故自分が此境遇に身を置か不るを得ないか、亦いつ此生地獄の長き長きトンネルの出口を一體發見能きりやうかを、まるで大海に突然迷ひ混んだ小さき蛙の氣分で日々を過ごしてゐた。浪は荒く、水は此の潰れ蛙の芯に冷たく、誰も、何も、哀れで孤獨な難破の助けにはならなかつた。

藥は飲めば身體の發作は治まるが、精神の發作は治まらぬ。「先生、最近ぢやあ座椅子が人に見えるんです。況やオウディオスピイカアの私を見下ろす恐ろしさよ。なあ先生。」貴婦人然とした老醫は愛想笑ひで頷く。「もう夜も恐ろしくて碌に眠れりやしないんです。」

だうした、だうした。え。いつもの事ぢやあないか。え?いつもの事だらう。好い加減に慣れたら何うだい。考へるだけ無駄だぜ。けふの事は勿論、明日の事も判りやあしないんだから。昨日の事は過去さ。過去は忘れていくものだ。それで善いんだよ。お前さんの氣狂ひだつて、いつの日かたうの昔に過ぎ去りたるものになる。長き難破もいつの日か終り、元の井戸へ戾るだらう。―大浪が身體を攫った後で、小さな死の音を残しながらな。ハハハハ。

いいだらう。あんたの云ふ日々の忘却つて奴に此の身を委ねてやる。唯一つ決意の一端を開陳する。腹蔵なく告白させて呉れ。

以下、宣戰布告

此身に降り災ひし障碍は、今までの俺の自分と戯れたりの所以だ。心の底では葛藤と迷ひながらも、決して俺自身と向き合ふ撰擇をしなかつたツケだ。先天のものをまるで苦労の末獲得したかの如く振る舞ひ、詭辯で己を驕り、惑溺してきた末の結果だ。その凡てのツケを今拂はされてゐるのだ。此の厄介な氣狂ひと云ふ名の個性に、俺は克たなければならない。今やうやつと悟ることが能きた。準備はできてゐる。お前を斃し、真の個性つて奴を手に入れるか、或ひは、敗けてお前に心身を喰らはれるか。審判の時、俺は自分の生死を初めて識るだらう。

大海原の遙か先、陽炎の霞む、凪に彳む波止場を見ゆ。もう井戸には戾らぬ、航海は今始まつた。哀れな蛙の、小さな小さな叫び聲と共に。

赧顔以て擱筆


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