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「本」へ期待しすぎている

僕は「本」に期待しすぎていた、と今は思う。

通学途中の時間を埋めるために文庫を買って読み始めた。それが僕の読書原体験。授業そっちのけで本を読む。先生から「授業そっちのけで本を読んでいたら、浪人するぞ!」と言われ、実際浪人した。継続・努力が大の苦手だが、本は買い続けている。書店に行くことが生活の一部である。

書店に入り、棚を眺め、興味関心おもむくままに表紙・タイトル・作家から本を選び、まえがき・まんなか・あとがきをサッと一読し、文体が自分の読むスピードやリズムとあっていれば購入する。古書店で「君、いい本を選ぶね」と言われることがささやかな誇りだった。

実は、そうして買った本たちは、すべて読まれるものもあれば、1ページ目以降は読まれないものもある。というか、ほとんどが読まれていない。

なぜ僕が本を読むかといえば、自分がインテリジェントに思えるからと気づいた(もちろん面白いことも理由だが)。

電車内でスマホではなく文庫本を開く。
部屋が書籍でいっぱい。
会話の中で読んだ文学作品から話題を広げる。

ほら、インテリっぽい。どこか知的な雰囲気がただよう。

あれよあれよという間に学歴にまみれて生きていた僕は、知らず知らずのうちに「本を読む=知的」と意識し、知的を演出するために本を用い、周囲との比較に耐えようとしたのだと今は思う。

不純だ。自分を取り繕うために本を利用しようとしている。それを僕は恥じる。

眠くなってきたので、今日はここまで。
おやすみなさい。また明日。


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