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【短編小説】 小人と書斎

 生活を形容する際に生きるという言葉を使ってしまうとその響きにはどこか逞しさが滲んでしまうからそんな上向きな言葉はそぐわない。だからどちらかというと生き長らえているという言葉の方がふさわしい気がするのだけれども、そもそも生という字体を用いた表現自体が似つかわしくない。もっと無機質的な響きを求めて、そうだ、維持がいいという気にはなったのだけれども、そう思ったとしてどうだろうか。
 維持を目的にすることは緩やかに死んでいくということに他ならない。法則としてこの世界には重力が存在するのだから現状維持なんていうものは常に堕落の真っ只中であることを認めることで、その堕落という底なしの穴こそが地獄であって、肉が滴り溶けたどこの馬の骨かも知れない屍が、ともに落下し続ける自身の頬や腕を掠っては先に落ちていくという心象に囚われている。引き上げられたいというよりもいっそのことそこまでの身軽さを伴った速度で私も闇に沈むことができれば良いのにとさえ最近では思っている。
 いつからか脳内には一人の小人が住み着いた。そいつは木の棒で何度も何度も打たれて原型が崩壊した出来損ないのカボチャのような顔をしていて、体型は小人と形容するように健康体の人間ならば3、4歳に相当するほどの幼児体なのだが、しかしその愛らしい大きさには似つかわしくなく肌は炎症で爛れて腹や二の腕は肥えた脂肪のせいで垂れ下がっている。印象と不均一な風貌の薄気味悪さに加えて一等不快にさせるのは、にへらとだらしなく口の隙間を開けて笑うときの、抜け歯の間から息が漏れる乾いた呼吸音とそれに連動する歯軋りだ。潰れた肺から延命のために押し出されるような音と抜け歯だらけの上歯と下歯を擦り合わせる耳障りな音。そいつが頭の中に住み着いてしまって笑いながらその音を発し続けるというそんな意識からも逃れることができなくなってしまってからは、寝つきも悪く不眠に悩まされるようになり、安全上の問題からとバスの運転士としての仕事も退職せざるをえなくなってしまった。
 ある晴れた日曜日の午後にピクニックに出かけたいと思うがそれすらも叶わない。原っぱにレジャーシートを敷いて友人や家族と団欒がしたいわけではなく、ただ脳内を忙しなく行き来するその醜悪な小人、ひいては落ちこぼれのジャック・オ・ランタンの存在から目を背けたいのだ。そのためには陽の光を浴びることや新鮮な空気を脳に行き渡らせるために風に吹かれることは有効であると考えるし、なんの憂いも忘れて粘土の塊を掌で押して転がすような速度で流れる鱗雲を、ベンチに座りながら見上げて舟を漕ぐことでもできればなによりの気分転換になり精神安定に一役買うだろうに。
 それでもやはり今日も2階の書斎に引きこもって過ごしている。そうだ、いつからか私を悩ませるその存在は脳内にとどまることなく世界に具現化されるようになった。その影にいつしか怯えて過ごしている。例えば、それは酷暑の八月の出来事で、湿気のため書棚に並ぶ幾つもの書物から黴臭い匂いが立ち込めるようになり換気を行おうとブラインドを開け小窓を開け放ったところ、階下に臨む大通りの人混みに紛れてそいつはいた。私がその姿を認知すればすぐにその視線に気付き、めざとく私を見上げては醜い顔で例のごとくにへらと笑う。思わずゾッとしてすぐさま窓を閉めブラインドを下ろす。それで平静が戻ってきたかと思えば、書斎の入り口扉の外側から階段を昇って廊下を進み誰かが近づいてくる足音がする。扉の前でその音は止まる。それから束の間の沈黙をおいて潰れた肺で無理に笑うその声が響く。耳を塞いでひとり掛けのソファにうずくまっても、その不穏な耳鳴りが止むことはなく、なにせもともとは私の脳内に存在していたのだから当然のこと行き来は自在で耳を塞いで目を瞑ってもその姿は鮮明に私の前に現れる。いい加減にしないか! と堪忍袋の尾が切れて扉を乱暴に開けて怒鳴りつけてみるけれども、もうそこにはいない、と思えばそいつはほくそ笑みながら私の右足にしがみついて、ちゃんとそこにいるのだ。振り払い蹴り上げていっそのこと階段から突き落としてやればこいつは死ぬのだろうかと思うが、さすがに幻影であったとしてもそこまでのことには良心の呵責があり踏みとどまってしまう。そんな自身の甘さなのか、それとも幼児の体をした存在を打ちのめすことを悪とする世間体に取り繕う自身の保身だろうかが私に葛藤をさせ思い悩んでしまうが、その仄暗さにもがいたとしても小人は脳内の四方八方に乾いた呼吸音と歯軋りを反響させ、そいつが私の苦悩を何もわかっていないくせにわかったようなふりをしてみくびるように笑うのだ!
 生活保護の申請のために診断書を書いてもらおうと医者に診せたところ新種の精神病だと判断されたのだが、新種とだけあって睡眠剤以上の投薬治療は行えない。その代わりあなた、定期カウンセリングを行いましょうと提案されてからは、月に2度ほどの頻度で医者の助手というポマードで髪を固めた丸眼鏡の男が家を訪れるようになった。今日は何時に起きましたかなにを食べましたか趣味だといっていたテニスは? 最近楽しかったことは反対に落ち込んだことはところでその、あなたがいう型崩れのかぼちゃはどんな具合ですかな、などと問診票片手に聞いてはなにか一見すると小難しそうなふりをして実際はどこか上の空の調子で首を捻っている。どんな具合ってほらそこにいるじゃないかとギギギとテーブルの下に潜り込んで笑うそいつを指差してみても、はてな、なんのことやらとこちらが軽蔑の眼差しを向けられる始末である。
 そんな生活にも果てがあって、優遇措置期間が今月末で切れると生活保護の減額通知の書類が届けられた。職を失い払うに払えぬ家賃は滞納が続き、これもやはり今月末の退去命令を知らせる通知が裁判所から届いていた。あぁ、それでは一体あの書棚の黴の生えかけた書物たちは一体どうすればと思ったのはもはや頭の片隅だけで、やはりその小人は私の手からそれらの通知を奪い取ってはおもむろに口に入れて歯を平行に右に左にと動かしすり潰し消化していった。その時の頬の滑稽な動きといったら、そうだ今日はあの藪医者の助手のポマードの丸眼鏡の男がやってくる日だった。
 玄関の呼び鈴が鳴る。どうぞどうぞお上がりくださいいつもご足労ありがとうございます、それで今日はもしよろしければですが書斎の整理を手伝っていただきたいのです、そうですかよろしい、といった会話をして私とポマードの丸眼鏡と落ちこぼれの小人は一同に2階の書斎に会した。整理というのはですね、はて、もう全て処分してしまおうと思うのです。それには一等燃やしてしまうのがよろしい。私はマッチに火をつけ油を充分に吸わせた一冊の本へとそれを落とした。瞬く間に火は広がり逃げ場を炎の壁で塞いでいく。ポマードの丸眼鏡の男は腰を抜かしながらもなんとか窓際に駆け寄りブラインドを上げ窓を開け放ち地獄から逃げるために落下した。なるほど、ポマードというのは火に弱いのだな、と風が吹こうと乱れることのなかった一切の隙のない彼の前髪があっけなく乱れたのを見届けながら、やはりもう思考は耳障りな笑い声に冒されて片隅でしかできないから、そこで縮こまるように自らも笑おうとしたら肺が熱の圧力に潰れてしまってコヒュ、コヒュ、と息ができなくなってしまっていたが、苦しみよりも先に身に纏う衣類に火が回って張り付いて全身を焼き付ける。そこから木造の建物の床が燃えながら崩落していき、炎に包まれた木材やら紙片らとともに私は落下していく。そうだ、もう、あの落ちこぼれのジャック・オ・ランタンはどこか別の家の別の誰かの脳内へと移り住んでいったのだとこの時になって気がついた。

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