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【短編小説】スラッガーと先輩

 いつからだろう歓声が応援じゃなくて責め立てる声に聞こえ出したのは。勇気を持って振ればよかった。球速もたいしてない甘いボールだったのに、下半身がこわばって振り遅れた。気づけば見逃し三振だ。俺で3アウト。7回裏が終わった。1、2塁に出塁していた走者とともに守備へと切り替えなければいけない。そう思っても簡単に気持ちを切り替えることはできない。

 ベンチに戻る際にマウンドに向かうピッチャーの手嶋さんが肩を叩いて労ってくれる。だけど顔を上げることはできない。4番を背負うスラッガーとして打って援護しなければならないのに打線は沈黙している。2-0のしょぼい試合だ。一打でも出れば形勢は変えられる。なのに、その一打が遠い。

 手嶋さんの気迫の投球もあって8回表は守り切り、裏のこちらの攻撃は8番笹山のライトフライで倒れた。9回表、相手のスラッガーが手嶋さんの得意のカットボールを豪快にスタンドに飛ばした。見事なホームランだ。出塁はなかったから点は一点のみだったが、俺らの戦意は著しく削がれた。歯を食いしばりながら手嶋さんがベンチへと下がってくる。また入れ違いに肩を叩かれ「頼んだ」と託される。最終回、最後の攻撃。打席は4番の俺に回ってきた。出塁はまたもや1、2塁。もしここで長打が出れば、逆転とまではいかずとも追いつくことができる。球場のボルテージは最高潮だ。みんながこの打席に注目している。俺は、情けなくも押し潰される。ボール、ストライク、ストライク、ファール、そして最後、腰が引けた空振り三振。球場の盛大なブーイング。試合終了だ。

 試合終わりに手嶋さんに飲みに誘われた。気持ちよく飲める心境ではなかったが、託された思いを果たせなかった罪悪感からか断れなかった。赤提灯のちんけな居酒屋で六百円のビールと百二十円の串を何本か頼んで飲む。憧れのプロ野球選手になったっていうのに現実はそこまで華やかではない。特に会話もなくちびちびと飲む。手嶋さんはポツリと独り言のように喋り始める。引退を考えてる、そんな話で、野球を心の底から楽しめなくなったことが理由だった。

 手嶋さんが会計を済ませて少し歩くことになった。野球の試合は長い。どんな退屈な試合だって9回が終わるまで続く。日付が変わるか変わらないかの時間に河川敷の公園に下った。砂地のグラウンドとして整備され少年野球の練習に使われている場所で、手嶋さんは担いでたバッグからグローブと白球を取り出した。
 「一打席勝負付き合ってくれよ」
 手嶋さんは酔っ払っているわけじゃない。野外照明に照らされた眼差しは真剣そのもので、俺は新人時代からお守りとして持ち歩いているバットケースからバットを取り出して構えた。手嶋さんのしなる速球がど真ん中に流れて、後方のフェンスに直撃する。本気の投球だった。手嶋さんが再度姿勢を整える。2球目がくる。身構えて、カットボールで勝負をしてくると予想をつけて思い切り振り抜いた。快音と共にボールは大きく弧を描き、川を越えて対岸の草むらへと落下した。「特大ホームランだな。完敗だ」手嶋さんがそう言って、ハイタッチを求める。俺は思わず漏れた笑顔でそれに応える。「ちゃんと笑えてるじゃないか」手嶋さんのなんてことのないその一言に、肩の荷が下りた気がした。

【あとがき】
 仕事を辞めた後も前職の同僚や先輩とときどき約束して会う。会ってすることはそれぞれだ。ただご飯に行くだけの人もいれば、一緒にキャンプに行く人もいる。プールに泳ぎに行く人もいる。そして、編集者時代の先輩とは半年に一度ほど野球を観に行く。
 特に試合を観るともなしに観ながら、近況を報告し合う。スポーツ観戦は好きだけど、お互い熱心な方ではないから一番安い外野席から試合を観る。選手は豆粒ほどの大きさで、派手にボールが飛んだときくらいしか盛り上がらない。でも先輩とはそんなボリュームがちょうどいい関係性だ。その先輩は人間としては穴の多い人(非常に失礼)だけど、編集者としては知識も勘も抜群で、いつも「敵わないな」と思っていた。職場を離れて会おうと思わなければ会えない間柄になっても、気にかけてくれるのは素直に嬉しい。そして距離が生まれたからこそ、その先輩の本当の苦労や仕事に対する熱が以前よりも見えるようになった気がして、ますます「敵わないな」と思わされてしまう。


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