「音痴の壁」音痴が教えてくれる色んなこと
私は自分が音痴だと最近気づきました(笑)
それまでは、まあ決して上手くはないけど、爆笑されるほど音痴でもないと思っていました。
なにより音楽が好きで、歌うのも大好きなので、あんまり気にしていませんでした。
だけど、カラオケの精密採点で、音程を示すバーがありますよね。
あれをちゃんと見ながら歌っていると、気づきました。
「あれ・・・これ、世に言う音痴なのでは・・・?」
なんか、結構本気になってその音程バーに合わせようとしても、合わないんですね。
うすうす気づいていたのですが、ちゃんと気づきました。
あ、自分は音痴なんだ・・・と(涙)
ショックはショックでしたが、まあ相変わらず歌うのは好きなので、ノープロブレムです。
そんなことより、音痴ってとても興味深い現象だなーと思ったんですね。
音痴から学んだこと①:自己認識と現実は乖離しているものだ
音痴というのは、やや拡大解釈すると「自己認識と現実が乖離していること」じゃないでしょうか。
自分が思っている自分は存在してない気がします。
また、自分が思っていることは現実と乖離していることも多いと思います。
色んな具体例で考えてみます。
そもそもですが、自分の声は、自分が聴いているのと、他者が聴いているのは違いますよね。
音痴か音痴じゃないかに関わらず、そもそも自分の声は自分が聴いている音とは別の音で他者に伝わっているそうです。
声以外にも同じようなことがいえます。
例えば顔。
不思議なことに人間は自分の顔を見えないまま一生を終えていきます。
(鏡で、自分の顔に近いものは見れますが・・・。)
一方で他者は、「私」の横顔とか、後ろ姿とか、「私」が見えない「私」をたくさん見ています。
だから自分が持っている自分像と、他者が認識している「私」像はかなり違うと思います。
自分では結構イケてると思っていても、実際はそこまででもないかもしれません。逆もあり得ますが…。
自己認識と現実はこのように自分の声や顔などからしてもそもそも乖離しているものだと思います。
結構抽象的になってきてしまいそうなので、もっと身近な例で考えてみます。
例えば、プレゼン。
自分は上手くいったと思っているけど、実際は全然うまく喋れていなかったということもありそうです。
逆もしかりで、自分は上手く喋れなかったと思っているけど、実際は上手くできているということもあるはずです。
面接とかもその好例かもしれません。うまくいったと思った時ほど落ちて、落ちたと思った時ほど通ってたりするものじゃないでしょうか。
そもそも知覚は上記の通り、自分の声や顔すらも正しく捉えられません。
そんなことだから、プレゼンをしようが、面接をしようが、その現象を他者と同じように知覚・認識することは難しいはずです。
音痴を自覚することで、そもそも自己認識と現実は乖離しているものだということを実感できると思います。
音痴から学んだこと②:色んな音痴が存在するんじゃないか
音痴という現象が示唆している二つ目のことは、色んな音痴が存在するんじゃないかということです。
「歌の音痴」は一般的に知られていますが、たぶんこの他にも色んな音痴が存在しているんじゃないかと思うのです。
ここで、音痴の定義をちょっと広く捉え直してみたいと思います。
音痴とは「自己の認識や身体感覚や感性が、求められているものや、一般的な基準とズレていること、または合わせられないこと」だとします。
歌以外には・・・運動音痴とか、方向音痴とか、機械音痴とか、味音痴などの概念が浸透していますが、まだまだその他にも実は色んな音痴があるんじゃないかなぁと。
ところで、先に表明したいのですが、差別的なことを言いたい訳ではありません。
「音痴的なもの」が実はたくさん存在しているんじゃないか?という仮説と、それを踏まえてどうやったらみんなが気持ちよく生活ができるか、ということについて考えるという趣旨です。
例えば・・・遅刻魔の正体は、「時間音痴」とも言えるんじゃないでしょうか。
自分の時間の知覚が、ちょっとズレている。
そういう音痴なんじゃないでしょうか。
まあもちろん、それは日本社会では言い訳になりません。時間音痴を自覚したらば、相応の対策を取って遅刻しないようにするべきことは言うまでもありませんが・・・。
ただし、「音痴」というフレームで捉え直せば、プライベートで相手が遅刻してきても、「時間音痴なのかもしれないな」と思えば気が楽になるかもしれません。
オシャレ音痴というのもあるかもしれません。
私は、服ダサいキャラ認定されて久しいです。
確かに、オシャレな着こなしをある程度、パターン化したり、知識として学習することはできます。
一つのコーディネートには、3色までに収めるべし、とか・・・。
これなら具体的な指標もあるから理論で対応できます。
でもやっぱりこれも限界があります。
真にオシャレな人のセンスには太刀打ちできないなぁと感じます。
まあ私は服装については、社交上に支障が無いのであれば全く気にしないので、オシャレ音痴でも全くノープロブレムですが・・・。
あとは、お笑い音痴。
笑いをとれる人がいる一方で、スベリ散らかしている人も少なからずいるはずです。(私もスベっているかもしれませんが、悪しからず…。)
たしかに、さんまのお笑い向上委員会に参加して、お笑いの型を身につけることはできるかもしれませんが、誰もがさんまさんのように、その瞬間瞬間に最適解を出せるようになるかと言うとそんなこともないかと思います。
それは歌の音痴も同じだとは思います。理論や型で学習をして改善はできるが、真の意味での音痴は変わらないという・・・。
色んな「音痴的なもの」があると知ることで、気が楽になることもあるのでは
結局何が言いたいかというと、「音痴てきなもの」っていうのは今知られているもの以外にもまだまだたくさんの種類があるんじゃないかということです。
そしてそれは、教われば克服できるようなものではないだろうと思います。
「バカの壁」と似ている気がします。
話せば分かる、というのはウソだと・・・。
「音痴の壁」とでも言いましょうか。
「音痴的なもの」があることを知り、コミュニケーション上で活かせたらいいなぁと思います。
おわりに
繰り返しますが、音痴だからダメとかそういうことを言いたい訳じゃないです。
むしろ、音痴だからと開き直ってしまったほうがいいと思います。
歌の音痴にしたって、採点で50点しかとれなくてもその場を最高に盛り上げ、本人も楽しみ切る人がいます。
逆に、歌が上手くて90点くらいとれる人でも、楽しくなければ意味がないはずです。
誰しも何かしらの音痴を持っている・・・。
そして、その音痴を知った上で、気持ちよく生活したいなーと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?