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峯澤典子×古屋朋 対談『てばなし』刊行記念 vol.2

第一詩集『ひとつゆび』


古:詩を書いても外に出すことがあんまりなかったので、そのころの私にとっては大切な過程だったのだと思います。

峯:第一詩集を出されるときは、書き溜めていたものからご自身で選んだのですか。

古:『ひとつゆび』の場合、ブログの時の詩は一切入っていなくて、大学時代や院時代に書き貯めていたものをいろいろ混ぜて入れた感じです。

峯:じゃあとりわけ新しい詩という。

古:そうですね、私の中では比較的新しいものですね。

峯:まとまった数の詩を一冊にすることで、全体を通して浮かんでくる雰囲気や色や音ってありますよね。
 
集合体にすることで初めて形として現れてくるものがあると思うのですが、第一詩集と第二詩集で、なにか共通して形にしようと意図したものはあるのでしょうか。

古:そうですね。共通点としては、現代に生きる人の話や現代特有のものを書きたくて。それこそデジタルの話とか仮想空間とか。心のよりどころがほしいって方は多いと思うのですけど、そういうものを日常から入っていきやすいところから書いて、こういう世界もあるんだよというのを書きたくて。現代の人にとって一種のよりどころとなる場所がVRとか仮想空間なのかなと。

峯:第一詩集では、語り手の内側と外側にある光をどのように混ぜ合わせていくかということを試みているのかなと感じたのですが。
自分の中の空想と外側の現実との折り合いをどう付けていくか…。
 
そのことが、点滅した光のような言葉によって表されていると読みました。
最初の詩集はとくに、夜という時間が言葉の底に流れていますよね。夜という時間から放たれる光だったり、夜に佇む自分の内側と外側にあるものを言葉で探っているのかなと。

古:ありがとうございます。自分自身夜型というのもありますが、夜って感情がすごい出やすいというか、その時間帯特有の空気感というか、そういうものがあると思うんです。より自分を解放できる。
 
昼間はいろんなものを演じているものだと思うのですが、夜自室でひとりでいるときは本来の自分に近い状態でいられるので。そういうときに詩や言葉が出てきやすいので、全体として夜という時間が流れているのは確かにそうかもしれません。


指先が触れる場所から。


峯:そんなふうに、たった一人になれる時間のなかで、感情が透きとおっていく、解放されていくという感覚がある。古屋さんは、詩のなかで、そういう解放の夜の時間を辿られているんですね。
あと思ったのは、この第一詩集の『ひとつゆび』というタイトルも、今回出された『てばなし』もそうなのですが。
指先や手という部分が印象的に扱われている詩が多いんですよね。

古:はい。

峯:指先、爪、手、という、触れることにまつわる言葉がよく登場しますね。古屋さんの詩の言葉は、何かを指さし、触れる言葉なんですけれど、でも何かに触れることは、同時に触れられない部分を確認する行為でもあるのかなって感じたんです。

指や爪は、先端ですよね。体の先端って、果てしないものに届くか届かないかっていう境界線だとも思うのですが、そこに着目して書いているっていうのはどういう思いからなのでしょう。書いているうちに、指先や手という言葉が自然と出てくるのですか?

古:いまアルコール消毒もそうですけど、基本的にいちばん端にあるものが手、もしくは指だと思っていて。無意識的にキーワードにしているのかなと思います。

峯:言葉と同時に、指先が動くような?

古:そうですね。昔から本ばかり読んでいた子供だったので、小学校の時はランドセル背負って、本を読みながら登校するような変な子だったんですけど、本もやっぱり手先じゃないですか。紙の手ざわりだったりページをめくったり。小さい時からそれが身に染みていて、実際大人になってからの生活でもその意識はあるのだと思います。

峯:本を読むっていうのは、指先から世界が広がっていくことですよね。自分でページをめくることによってさまざまな時間と空間が体の中に入ってくる。その始まりに、「指」っていう部分はありますね。

古:スマホとかで読むときも「指」なので、やっぱりどんなにデジタルの世界になったとしても、指先からというのは変わらないのかなと。

峯:それと、さっき古屋さんが仰っていた、夜になると、素のままの自分に戻っていくっていう感覚が詩の言葉の中から現れてくるのかなっていうのを、今のお話を聞いていて思ったんですね。

とくに気になったのは、今回の詩集『てばなし』のなかでも、「しろい記憶」という、おじいさまが亡くなられてしまったというのは本当の話…?

古:はい、本当の出来事です。


vol.3「手放し、もどってゆくこと。」へつづく


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