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負債論を読んだら、お金のB面を理解した話

デヴィッド・グレーバーの『負債論』は、お金がどのようにできたかという問題をもう一度とらえなおすことで、お金の価値観にパラダイムシフトを引きおこしてしまう本だ。

僕はこの本を読み、そして同じタイミングでたまたま出会った、とある経営者との個人的な体験をとおして、お金にたいする価値観が完全にかわってしまった。

お金の力のA面だけでなくB面を理解できるようになると、お金のパワーを最大限にいかすことができるようになる。

古典派経済学における物々交換神話の否定

『国富論』のアダム・スミスも、その系譜上にある現代の主流派経済学も当然のごとく受け入れている神話とは、例えば次のように表現される。

古代にはお金は無く、人々は物々交換に頼っていた。しかし物々交換は非常に効率が悪い。自分が欲しいモノを持っていて且つ自分の持っているモノを欲する人を、見つけねばならない。しかも同じ時期に。やがてあるモノを選んで「交換手段」にするという発想が生まれた。理屈の上では、支払手段として広く一般に受け入れられるものなら、何でも良かった。しかし実際には、金と銀が選ばれることが多かった。耐久性があって加工し易く持ち運び可能で、希少だからだ...

フェリックス・マーチン『21世紀の貨幣論』

この神話では、同時にお互いが欲しい物を交換しなければいけない「欲求の二重の一致」の問題をとりあげて、それを解消するために「交換手段」として通貨が発達したとある。しかし負債論では、この神話は根拠のないデタラメな創作であることが明かされる。

負債論における貨幣の成り立ち

デヴィッド・グレーバーは人類学者である。経済学が数理的なモデルを使ってお金をかんがえるのに対して、人類学はフィールドワークやファクトの積み上げを重視する学問である。

グレーバーは人類学観点から物々交換神話の検証をおこなった。その結果、物々交換が貨幣のはじまりであると証明できる根拠を見つけることができなかった。

刑務所の中でタバコが通貨として利用されるような事例は存在した。ただしそれは、通貨という存在を知っていて交換のために使うことを経験している人たちがお金の代わりとして利用するケースだった。

そこでグレーバーは、貨幣の始まりとして以下のようなシナリオを考えた。

 ヘンリーは、ジョシュアに近づいて「いい靴じゃないか!」という。
 ジョシュアは「ああ、たいしたものじゃないよ。でも気に入ったのなら、ぜひどうぞ」。
 ヘンリーは靴をもらう。
 ヘンリーの芋については話題にあがらない。なぜなら、ジョシュアが芋が必要としたときに、ヘンリーがそれをくれるであろうことは、どちらにとってもいわずもがなだからである。

デヴィット・グレーバー『負債論』

あるいは、

 ヘンリーが、ジョシュアに近づいて「いい靴じゃないか!」という。
 あるいはーー状況を若干現実的にすればーーヘンリーの妻がジョシュアの妻とおしゃべりをしている。そこで彼女は口をすべらせ、ヘンリーの靴が古くなっていて、魚の目に苦しんでいることを訴える。
 そのことが伝わって、ジョシュアはあくる日、ヘンリーをたずね、あくまでも隣人のよしみだとことわって、余分のかれの靴を贈り物として与える。ジョシュアはどのような意味でもそのお返しを期待していない。
 ジョシュアの言葉が、本意かどうかはどうでもよい。ともかくそうすることで、ジョシュアは貸しをつくった(registers a credit)。ヘンリーはジョシュアに借りを作った[借りを負った]。
 ヘンリーはどのようにジョシュアに借りを返すのか?無限の可能性がある。おそらくジョシュアは本当に芋が欲しいのかもしれない。ヘンリーは密かに機会を待って、これも単なる贈り物だとして芋をとどける。あるいはジョシュアはいまのところ芋を必要としていないが、ヘンリーはそのときまで待っている。または一年後、ジョシュアは宴会を準備しながらヘンリーの納屋におもむいていう。「りっぱな豚だな…」。

デヴィット・グレーバー『負債論』

たしかにとても現実的なふにおちるシナリオである。どちらのシナリオにおいても、経済学の教科書が際限なくひきあいにだす「欲求の二重の一致」の問題は端的に消えている。ヘンリーはジョシュアがいま欲しがっているものをもっていないかもしれない。だが隣人どうしならば、そうした機会がやってくるのはあきらかに時間の問題にすぎない。

借用書の流通が紙幣

「貨幣信用理論」を提唱したミッチェル・イネスらは、貨幣は「商品・モノ」ではなく計算手段であると主張した。1時間や1立法センチメートルに触れることができないように、1円や1ドルに触れることもできない。通貨単位とは抽象的な尺度単位にすぎないと考える。

それでは、貨幣が尺度にすぎないならば、それはなにをはかるのか?それはまさに負債である。一枚の硬貨とは実質的に借用証書なのである。1万円札とは1万円と等価値であるなにものかを支払う約束にすぎない。

お札や硬貨そのものに価値がないというのは直感的に理解できないかもしれないが、17円の製造コストであるお札が1万円として使われることを考えれば納得がいく。

そのようにして負債を返すことを証明するために作られた借用書が流通したものが、通貨であると考えられるのだ。

信用貨幣はどのように発生しえたのか?経済学教授たちの架空の町に戻ってみよう。ジョシュアはへンリーに靴を贈ることになっている。だがへンリーはジョシュアの好意を受け取りっぱなしにするより、[お返しに]等価値のものを[贈る]約束をすることにする。そこでへンリーはジョシュアに借用証書を渡す。ジョシュアは、へン リーがなにか有用なものを手に入れるまで待って、それから借用証書をへンリーに戻す。ここでへンリーが借用証書を破棄してしまえば、そこで話は終わりになる。だがジョシュアが、じぶんがべつのなにかを負って[借りて] いる第三者、たとえばシーラにその借用証書を渡したとしよう。その借用証書は、第三者によって第四者、たとえばローラに対する負債の決済に使用されることもできる。となると、へンリーはその額面をローラに負う[借りる]ことになる。かくして貨幣が誕生した。なぜならそこに論理的な終点は存在しないからだ。
シーラが靴を一足イーディスから入手したいと考えているなら、シーラはイ ーディスにその借用証書を手渡し、へンリーは信用できる人間だと彼女に確約するだけでよい。原則として、借用証書をあてがわれた人びとがへンリーを信頼しつづけるなら、その借用証書が数年にわたって町で流通しつづけない道理はない。実際にそれが十分つづくなら、人びとは発行人のことは忘れ去ってしまうだろう。起こっているのは、まさにこうしたことなのだ。

デヴィッド・グレーバー『負債論』

人類学者キース・ハートがじぶんの兄について話してくれたことがある。1950年代、その兄はイギリス軍兵士として香港に駐留していた。兵士たちは、イギリスにおける銀行口座の小切手に署名して、飲み屋の勘定を支払っていた。現地の商人たちはしばしばそれにかんたんに裏書きしてたがいにやりとりし、通貨として流通させていた。あるとき、 彼は六カ月前に切ったじぶんの小切手のひとつを、現地の商人の勘定台で発見した。それは40もの異なった中国語の署名で覆われていたのである。

デヴィッド・グレーバー『負債論』

1万円札とは1万円札と等価値のなにかを支払う約束なのである。つまるところ、1万円札はそれ自体でなにかの役に立つことはない。人がそれを受け入れるのは、他のだれもがそうするであろうと想定しているからだ。

この意味において、通貨単位の価値とは、ある対象物の価値の尺度ではなく、ひとがべつの人間によせる信頼の尺度なのである。

モラルの問題としての負債

人には人からなにかを与えられたら、それを返さなければいけないという感覚がある。グレーバーはこのことを宗教を持ち出してモラルの問題として説明しているが、返報性の原理とも言われるように、人間の本能に根ざした心理だと考えられる。

また、人は生まれつき負債を抱えているとも考えられる。人は生まれた時から自分の足で立って食べ物にありつけるわけではない。そこで親に手取り足取りサポートしてもらう。自分の足で立てるようになってからも、完全に自立するまでにはまだまだ長い時間がかかる。その期間、さまざまな人から知恵を授けられ、物資を与えられ、自立した人間になれるようにサポートを受け続ける。

社会には先人から残されたものにあふれている。あの川にかかっている橋も、建物も、美味しい食事のレシピも、エンストせずに走る車も、すべて先人たちが創り上げて後世の人たちに残してくれたものである。

そうした与えられてしまったものを、いずれ自分が社会に対して返していく側に回ることになる。

与えられたものは返したいと思うのは、自立した個人が助け合って営む社会においては根本にある感覚であり、この社会にはたとえ見える形での通貨がなくとも、負債のやりとりはたえずおこりつづける。

負債を与えることのモラル

人には返報性の原理という心理を持っているために、負債を与えられると返さなくてはいけないという感情が働く。この原理は悪用することも可能で、一方的に負債を与えることで相手に罪悪感を与えて、支配することも可能だ。

人は、小さなほどこしでも与えられたらより多く返さなければいけないという感情が働くために、マーケティングでもしばし使われるテクニックである。

具体的にはスーパーの試食の例がある。試食は本来は、無料で食品を提供し、その味を客が確かめ、購買するにふさわしいと判断した場合に買ってもらうプロモーション戦略のひとつであるが、客は店員から直接食品を手渡されることによって、その味が美味しいかまずいにかかわらず商品を買わなければいけないという気持ちになることが多い。

受け取り手に対する忠告としては「タダより高いものはない」と言えるし、与える側においては、与える時点ではどんな意味においても見返りは期待しないという純粋な感情が必要になる。

お金の稼ぎ方、使い方(=負債を取引すること)には常にモラルの感覚が必要になるのだ。

労働価値説は否定される?

商品にはもともと価値があるから交換できる、というのが古典派、新古典派経済学の主張だ。その場合、商品の価値というのは何を根拠に生じるのだろうか?

マルクスの資本論では「労働価値説」を唱えている。
野生動物は自然にあるものを直接消費している。リスはドングリが落ちていればそのまま食べる。しかし、人間は自然にあるものそのまま消費することはせず、加工してから消費している。つまり、商品はどのようにして作られるかといえば、地球上にある資源に対して、人が労働力を投下して、加工をすることによって価値を生み出し商品にしていると考えられる。(物質代謝論)

労働価値説とは、商品の生産に投下される労働力、つまり生産するのにかかった労働者の時間、によって商品の価値は決まるという理論だ。

ペンの値段が100円だとすれば、その原料を仕入れるのにかかった金額が20円、残りの80円は労働者がかけた時間だというわけである。しかし世の中では100円で生産されたペンが、120円で売られていることがある。労働者には80円しか支払われず、経営者が20円をアガリとして確保する。この20円はどこから生じたのか?マルクスはこの20円を労働者からの搾取だと考えた。

しかし、本当にそうなのだろうか?例えば有名な俳優が一度使ったペンだった場合、ファンが納得さえすれば元々は100円の商品が10,000円で取引されることもあるのではないか?あるいは、1万時間投下して作った商品が誰にも見向きもされないこともある。

マルクスの労働価値説では、価値の生産という片方の面にしか着目していない。分散的な市場取引の場合、商品の価値というのは需要と供給によって取引のたびにたえず決まる。

商品そのものに価値があるのではなく、相互他人的にモノを交換できる関係が先にあって、交換をするタイミングで相手が価値を感じる、というグレーバーをふくめる学説はこのことの説明になっている。

このことは、アダムスミスが「神のみえざる手」といったように、市場が自律的に資源の配分をおこなうというメリットをもたらす。もし、国がすべて生産と分配の計画を建てる計画経済の場合、たとえば飢饉の問題に対処できない。その年の天候が悪く小麦がじゅうぶんに採れなかった場合、生産量は計画的にしか引き上げられないために対応が遅れたり、間違った意思決定をする可能性があり、地域住人を深刻な危機にさらすことになる。

しかし、自由経済であれば、小麦の供給量が減れば小麦の価格はあがっていき、そこで儲けたい人が参入して小麦の生産量を増やしていく。あるいは、すでに在庫を抱えているほかの地域の住人が、ゆずってくれるかもしれない。そうして、供給量が充分に需要を満たせば、また小麦の価格は下がっていきやがて落ち着く。このように、市場が自律的に生産量を決めるために比較的はやく問題解決をすることができる。

市場経済には問題点も多々あるが、このことが市場経済をやめるわけにはいかない一つの理由になっている。

貨幣なき個人の尊重は可能なのか?

負債の返済の義務が人間の根幹にあるのだとしたら、貨幣というのは人から切り離すのがとても難しいものになるが、貨幣なき個人の尊重は可能なのだろうか?

ここでは、簡易な説明にとどめるが、マルクスは「アソシエーション」という概念を用いて、貨幣なき個人の尊重は可能であると考えた。アソシエーションとは、共通の目的を持つ人々が自発的に作る集団組織のこと。個人の私的所有から、コモン(共有財産)としての共同管理に切り換えるという、所有の概念の再建をすることを模索している。

アソシエーションの実現には生産性の向上がカギであると考えられる。技術の民主化がすすんで、たとえ家ですら3Dプリンターを使って個人が建てられる世界が到来し、資源も充分にゆたかな社会においては貸し借りは発生しないだろう。

しかし、そのような社会が全体に到来するのは当分先のことだろうと思う。ただし、貨幣空間のなかに歪み的にコモンを構築していくことは可能だと思われるし、現実に家庭内や企業内では市場の原理とは別の原理で動いていている。

日本人は負債と贈与の感覚を忘れてしまっている

日本人は戦後しばらく1億総中流意識をもっていたが、今や実態はかなり貧しい国となっている。自分のことですら精一杯な経済状況では人に与えることを学ぶのは難しい。自分自身で生産する経験も不足しており、すでに与えられているものがどれだけ困難をともなって生み出されてきたのか、想像する力もなくなっている。

まずは基本的な生活を満足にできる状態を作る必要があり、その方法としてのベーシックインカムの可能性には期待できる。その先に、贈与と負債の感覚、価値観が醸成されるのではないかと考えている。

とある社長に教えてもらったお金の使い方

私はとある化粧品企業の社長と、お付き合いさせていただいている。営業あがりのワンマン社長で、社員数20人程度の規模の会社で年商は数十億円になっている。

ありがたいことにご縁があり、ITの面からお手伝いをさせていただいているのだが、ことあるごとにご飯に連れていっていただき、教えを頂戴している。接するごとにお金の本質を理解している人なのだと感銘を受けている。

最近、生き金と死に金ということについて教えていただいた。具体的には述べられないが、目の前で死金を生き金に変えて見せるという衝撃的な体験をした。

すぐには理解できなかったのだが、つまりのところ同じ1万円でも使いかたしだいで1万円以上の価値を引き出すこともできるし、何も役に立たないで捨てることにもなるということ。

なるべく役に立たないお金は使わないというのは理解できる。携帯ゲームの課金より自分の知見を広げる本のために使った方が、将来的により多くのメリットを得られる可能性がある。同じお金でも使い方しだいで価値が高まるのは当たり前のことだ。しかし、同じ1万円でもそれより大きな価値をひきだすとはどういうことだろうか?

貨幣が商品であると考えていたら、1万円は1万円にしかならない。時間という複利を考慮して、米国のS&P500のインデックスファンドに投資をしても1年後にはせいぜい1万200円にしかならない。

しかし、負債論的に考えれば納得がいく。貨幣とは信頼の尺度なのだから、1万円でも人間の感じ方しだいでは10万円にもなる。感情とは本来数値化ができずに無限に高まるものなので、その数値などあってないようなものだ。

それを高めるためには、いかにして相手に驚きと感動を与えるかということになる。彼女への100円のプレゼントだって、工夫をこらして演出をおこなえば一生の思い出にすることだってできる。

つまり、見える形でのお金というのに大して価値はなく、ほんとうに大切なのは人間関係であり、信頼感情を積み上げていくことなのだと受け取った。

私がその社長のことを尊敬しているのは、多くの金額を稼いでいるからではなく、そうしたお金の本質を理解し、その知見を惜しみになく私に与えてくれたからである。

資本主義における、お金の価値の転倒

資本主義には限界がある、だからコミュニズムだ、というのはあまりに稚拙な議論だ。貨幣は個人的秩序と切り離せるものではないために、お金を否定することはできない。しかし、資本主義がすべてにおいて完璧かと言われればそうは言えない。

強力に資本主義を加速させている米国では、所得の格差を表すジニ係数が先進国では最大で、トップ1%の富裕層がアメリカの総資産の3割をにぎっている。利得だけを追求した結果、地球環境の問題にも発展している。

本来なら信用を数値化したものがお金のはずが、気がつけばお金そのものに価値があると錯覚する、価値の転倒が起きる。

信用があるからその結果としてお金も持っていて評価されるはずが、お金を持っているからエライと評価するようになり、さらにエライからお金を持っているという2重の転倒が起きる。冷静にはたから見れば、とても滑稽なことが起きている。

「市場システム」というものを相対的にとらえ、お金の本質を理解して、よりよい資本主義の仕組みにアップデートしていくことが、今求められていると思う。

負債論はお金のB面

物々交換神話にもとづく商品としてのお金の面と、先に人と人が信頼をやりとりする空間があるために、信頼が見える形になったお金という側面どちらが正しいのだろうか?

結論としてはコインの表裏のように、どちらの面もある。どちらの面も理解して、意識的にお金の使い方を切り替えることによって、お金のパワーをより引き出した使い方ができるようになるはずだ。

お金というものの本質的な価値は人間関係にあることを見抜き、純粋に人々を笑顔にして信用を積み重ねていくことが、結果としてお金につながるのだということを理解すれば、より心が豊かで自由に生きられるようになる。

そのことを理解しなければ、「見える形でのお金」に振り回されてしまう人生になってしまうだろう。

参考図書

#お金について考えていること

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