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旅の途中 進んで戻る自己理解

束の間の旅に出る前、慣れた村を出るバスの中で
あんまり情緒的になってもしょうがない
とふと思った。
事実情緒的ではなかった。
また新しく見知らぬ土地を見に行くというときの出発なのに、自分にしてはやけに淡々としていた。
そういえば此処この場所も旅路の中にあったんだった、と改めて思い直す。

山の紅葉は折り返しに入ったように見えた。まだ赤や黄色がみえるが、徐々にみずみずしさを失っていてこのあと枯れ落ちるぞという面持ちだ。
寒い村を出れば、他の場所ではこれからしばらくは見頃なのかと考えたが、特別よろばしくも思えなかった。
少し前ならこれに救いを求めるように、深妙な顔をしながら感傷に浸っていたことだろう。


こんな生活をしているから、少しずつ周りとずれていく感覚がある。
周りというのはかつての友人たちで、小さなやり取りの端々から自分と相手の違いを感じるようになった。
子どものころはあんなに“普通”がいいと願っていたのに。
たぶん今は普通じゃない。

電車を乗り継ぎ街に出ると、みな薄着だった。半袖を着ている外国人観光客もたくさんいる。11月に驚きだ。かさばるコートを着ているのは自分だけのように見えた。
街の気温を調べて、ああこれは、私は、えらく田舎から出てきたんだなと理解した。

都会の真ん中で生まれ育ったのに、いまやすっかり田舎者。これもまた良い。
とか思いながら、今の友人にこのことを話すと、ただ気温が違うだけで、場所が違うのだから当然だろうと一蹴された。

やっぱり逐一悦に浸るくせは抜けていないし、どうやら“普通と違う”と思いたいだけらしいこともよくわかった。


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