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神保町「ライスカレーまんてん」創業43年 カレーに人生を捧げるマスターの思い

そのカレー屋の店主は、お客さんから「マスター」と呼ばれ親しまれている。お客さんが店を出る際にはいつも「申し訳ない」と声を掛ける。その言葉には、きれいに残さず食べてくれてありがとう、という感謝の思いが込められているという。カレーの街、神田神保町で43年間営業を続けてきた「ライスカレーまんてん」。このお店を第2の故郷と慕ってくれるお客さんも多い。カレーが紡いでくれたお客さんとのご縁を大切に、いまも厨房に立ち続けるマスターの想いを尋ねた。


(1)お客さんとの関わりの中でたどり着いた味

マスターは1942年、東京都千代田区で、5人兄弟の末っ子として生まれた。衣料品店を営んでいた両親の姿を見て、幼い頃からぼんやりと「いつかお店を持ちたい」と考えて過ごしてきた。
 
「コーヒー屋さんか何かになれたらいいな、と思っていました。当時コーヒーが流行っていたので」
 
高校卒業後、写真を扱う会社の営業を3年経験してから、地元の定食屋さんで20年ほど修行した。そこでマスターは人生の伴侶と出会う。後にライスカレーまんてんでお客さんからも「奥さん」と親しまれる女性だ。「マスター」と「奥さん」、ここまで力を合わせてお店を営んできた。
 
「定食屋で働く姿を見て、この人は一緒に苦労をしてくれる人だ、と感じるものがありました。いつか独立したら、きっと大変な思いもさせてしまう。だからこそ気が強くて、自分の意地を通してくれる人じゃないとだめ。その点、彼女は大事なところではっきりと意見をしてくれる。これはありがたいと思いました」
 
マスターは強力なパートナーを迎え、ライスカレーまんてんを開いた。マスターがカレーを作り、壁一枚はさんだ隣では、奥さんがとんかつ屋を開いた。
 
しかし、開店当初は厳しい現実が待っていた。
 
「はじめはお客さんがまったく来てくれなかったんです。お昼どきなのに閑古鳥が鳴いちゃって。これはまずい、どうしようかと思って過ごしていました」
 
転機はお客さんとの会話だった。
 
「あるとき、仲の良かったお客さんから、カレーの味についてのリクエストをもらったんです。修業時代からカレーについては自信がありました。でもお客さんの要望ならば、ひとつ試してみる価値があると思いました」
 
そして、スパイスの割合を調整しては、「今日の味はどうかな」とお客さんに聞くようにした。「今日は甘すぎる」とか「今日は少し辛いね」といった具合に細かいアドバイスをもらいながら、試行錯誤を繰り返した。
 
お店でお金を払って食べてくれるのは、もちろんお客さん。それならばお客さんが食べたい味を追求していこうと必死だった。こうした努力を何年か積み重ね、いまの味にたどり着いた。お客さんには感謝の気持ちしかないと当時を振り返る。
 
また、いつも近くで支えてくれた奥さんの存在は大きかった。
 
「とんかつ定食はキャベツを切ったりスパゲティを添えたり、こだわりの味噌汁をつくったりという作業も、すべて奥さんが担当していました。その日の気分によって、カレーととんかつが選べることも店の持ち味のひとつになり、お客さんが増えていったように思います」
 
豚肉はブロックで仕入れ、すべてマスターが捌いた。とんかつに使う部位、カツカレーのカツに使う部位、挽肉にする部位に分けた後、骨はカレースープのダシとして使った。すべて余すことなく使い切るやり方は、まんてんのリーズナブルな価格設定を実現させた。

(2)学生さんとの交流が活力に

こうして1年が経つ頃、マスターは客層の変化に気がついた。
 
神保町は高校や大学、専門学校や簿記の学校が並び、学生さんが多い街。彼ら彼女らが、友達を誘って複数人で来てくれるようになっていった。
 
「今では、校則なんかが厳しくなっているかもしれないけど、あの当時は、高校生が昼休みに学校を抜け出して食べに来てくれたんですよ。抜け出しちゃって大丈夫か、なんて言ってからかっているうちに仲良くなって。そのうち、その高校の先生までが食べに来てくれるようになったりして」
 
マスターは厨房に立ちながら、お客さんとの会話を大切にして過ごした。
 
コの字型のカウンターには12の席がある。12人のお客さんの注文を聞きながら、全員と少しずつでも会話をするように心掛けた。最初は他愛もない話から。しかし次第に、学校や家族のこと、悩みごとを打ち明けてくれる学生さんも出てきた。その度にマスターは、本音をぶつけて会話することを続けてきた。
 
「東京には、地方から上京してくる学生さんもたくさんいます。このお店のことを、第2の家族のように頼ってくれる人もいる。すごくありがたいなと思って過ごしてきました」
 
ある時、近くの大学の学生さんが、皿洗いのお手伝いをさせて欲しいと名乗りをあげてきた。アルバイトとしてではなく、ボランティアとして。お金は要らないので、お店で学ばせてほしいという。
 
「はじめはびっくりしました。勉強に遊びに、部活に忙しい学生さん。それでもお店や僕らのことを慕って申し出てくれたことが嬉しくて、悩んだ末に、お言葉に甘えて、手伝ってもらうことにしました」
 
まんてんはこの頃、安くておいしいボリュームたっぷりのカレーが話題となり、カレーの街神保町においても、ひとかどのお店となっていた。テレビ局にも積極的に取り上げられ、開店から閉店まで、お店には常に行列が絶えなかった。厨房は多忙を極めた。1分1秒が勝負だった。
 
慌ただしい厨房に送り込まれたお手伝いの学生さんに対して、マスターはあえて何も教えなかった。厨房に入ってもらい、「できることを見つけてやってください」とだけ声をかけた。
 
「人からとやかく言われると嫌になってしまうこともありますよね。確かに、はじめは何をやっていいかまったくわからなかったと思う。だけど次第に、何も教えてもらえないことに気がついて、自分からできることを見つけて動いてくれるようになるんですよ。そういう姿を見ているのがすごく楽しかった」
 
自分で行動したからこそ、はじめてそこに失敗が生まれる。その瞬間にこそ成長があると信じている。何も教えないからこそ厨房に生まれる緊張感。
その期待に応えようと、必死で試行錯誤していく学生さんの姿に、カレーの味を追求していたころの自分自信の姿を重ね合わせた。
 
自分ができるのは、その人が踏み出す一歩を見守って、じっと待ってあげること。責任はすべて自分がとる。だから思い切ってやってごらん。そう思って接してきた。

壁には学生さんを応援するグッズが並ぶ
学生さんとの思い出の写真

(3)息子さんに代替わりをして、思うこと

10年ほど前に、息子がお店を継いでくれた。そのことがとにかく嬉しかった。しかし、マスターはカレーの作り方を始めとして、経営の方法についてもやはり何も教えなかった。
 
「すべてを息子に任せよう、という思いでした。これまでのことは気にせずに、自分の持ち味を出してやってほしいと」
 
何十年にもわたって、地元の人に愛されるカレー屋さん。この味をずっと続けていって欲しいというファンがたくさんいることは知っていた。
しかし、マスターはこの代替わりのタイミングで、お店の味が変わってもいいとさえ思っていた。後を継ぐ決心をした息子が自分の色を出してやってくれればいいと、信じた。
 
それに、もし味が変わったとしても、その時はお客さんが教えてくれるはずだと思った。
かつてまんてんのカレーをお客さんが作ってくれたように。
息子もお客さんとの繋がりの中で、求められている味を自分で見つけていってほしいと。
 
そんなライスカレーまんてんは、今年で創業43年目を迎えた。
息子さんに引き継いだ今も、マスターは裏方として厨房に立ち続けている。
 
「振り返ってみても、カレー屋をやめたいなって思ったことは1度もない。ごちそうさま、おいしかった、と言ってもらえた瞬間が最高にうれしい。喜んでもらえる顔を見るたびに、また頑張ろうって思って、早起きして仕込んできました」
 
開業から現在に至るまで、すべての時間を仕事に捧げてきた。やりたいことを全うすることができたから悔いはない。思いきり働くために普段から心がけているのは、とにかく寝ること。夜更かしもしないし、お酒も飲まない。休みも無い中で必死にここまでやってこられたのは、お客さんがいてくれたおかげと振り返る。

休業日も仕込みで厨房に立ち続ける

(4)家族への思い カレーへの思い

そして、同時に家族への感謝の思いが常にマスターの支えとなっている。
 
「奥さんには、感謝の気持ちしかないです。丈夫で、元気で、ここまで過ごしてくれた。私と一緒にいてくれたことは、大変だっただろうと思う。私は口下手だから、お客さんや従業員に対して、気持ちがうまく伝わらないこともある。そんなとき、いつも奥さんが間に入って、フォローしてくれました。店を継いでくれた息子も、本当によく頑張っています」
 
これから10年後、あるいは20年後もまんてんは、変わらずお客さんに喜んでもらえるお店であり続けてほしいと願っている。
 
長くお店を続けていると嬉しいことが、ある。
 
「ボランティアでお手伝いを志願してくれた学生さんが、就職して結婚して、子どもを連れて食べに来てくれたんです。マスターお世話になりましたって。学生の頃の思い出話をたくさん交わしながら、一緒に懐かしい気持ちにさせてもらいました」
 
振り返ってみると、マスターにとってカレーは、多くの人とのご縁を紡いでくれるきっかけになった。自らが生み出したカレーが、地元に愛され、世代を渡って引き継がれていく。
 
「自分の人生を1つの仕事に捧げられたのは、最高だったと思う。」
 
神保町のオフィス街にある、細い野路裏。
ターメリックを連想するような黄色い行燈に、今日も灯がともる。
そこにはお客さんと一緒に歩んできたカレーの匂いが、静かに満ちている。

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