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茶道とヨガ - 量と無我の境地の関係

「人生なんて修行」って感覚が20代の頃からあった。

だから無意識の内に、どうせならなるべく気持ちよく生きる方法を手に入れておこうとしてきたフシがある。

10年以上続けている茶道とヨガ。やればやるほど共通点が多く、点が線に、線が面に倍々で肚に落ちていく感じがするのです。

例えば先日のお稽古での先生の小話。その日は茶碗について。ずらりと並んだ刷毛目茶碗。350年前の朝鮮メイド、半泥子、現代陶芸家のものなどなど。講座の本筋はここでは割愛するが、先生が余談でおっしゃった一言にピンときた。「てらいの無い茶碗がやっぱりいい」と。つまり「無我」で作られた茶碗に、やっぱり見る人の心も動かされるという話だ。
点が一気に面に広がった。

ヨガの瞑想でも、無我の境地を目指す。しかし目指すという行為は執着となるので、そこから離れる必要がある。(矛盾!笑)。じゃあどうする?という問への回答が、”毎日実践”して、”数多く”こなすこと。その中でふとそういう境地に達することがある。無我とは結局そういうレベルの境地で、人がコントロールしていこうとしてもいけるものではなく、「結果そうなる」ものってことなんだ。そのために人間ができることは、コツコツとやること。量を重ねること。

半泥子の随筆にも、まさに「量と無心の関係」について語っている箇所が多くみられる。この川喜田半泥子も多忙な実業家でありながら、スーツやテニスウェアで、毎日のようにロクロを回していた。

こうして無造作に十本も二十本も作っていくうちに、一本や二本は「無心」というか、「無我」というか、「理屈」のない嬉しいものが出来ている。(中略)之を見る者も、亦嬉しさを覚える。
──竹花入についてのくだりより

やっぱり量なんだ。つまり実践。それはお点前にも言える。筋トレのように(出来ることなら!)毎日練習をすることで、ふと無心のお点前ができ、その時、茶室は「和敬清寂」の空気が満ちるんだろうな。
お客さんと一体になった感覚であり、「清々しくリラックスした緊張感(子供の頃使っていた表現)」であり、ヨガを勉強してきた今なら「覚醒」とか「三昧」と呼ぶかも知れない。

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