死の尊重と生の切望
以前、ぼんやりと考えていたことがある。
“医療心理職に就くということは、人の死が日常とまでは言わずとも、それなりに身近なものになるということなのか。”
立場上、自分は他者の自死を止めなければいけなくなるわけだが、それは本当にできるのか。
ここでの可否とは、技術的なことではなく、思想的な意味でのことだ。
これは自分個人の意見だが、死にたい気持ちは大切にすれば良いと思うし、死という選択も尊重されて良いと思う。
どこまでいっても、他者の気持ちを理解することなんて出来っこない。せいぜい、何かしらの気持ちを抱えているという事実を認知するのが関の山。
想像力の豊かな人なら、或いは、似た経験をしたことがある人なら、他者の気持ちへの共感ができるやもしれない。
しかし、何をどう頑張っても、それが想像の域を出ることはない。共感であるはずのあの3文字が、濃縮還元攻撃となることすらある。
自然発生したにしろ、論理的に導き出したにしろ、その選択に至る過程には、本人に固有の感覚・感情・思考・経験・その他があると思うのだ。
そしてそれは、侵害されて良いものではない。
仮に侵害したとして、その先は?
道に立たせ続けるその傍に、一緒に立ち続けることは考えたのか。そしてそれは現実に可能なのか。
自死することは何故、よしとされないのだろう。
無責任にそれを止めることは、正義となり得るのか。
いつか、こんなことも言えないぐらい、他者の自死 をどうしようもなく怖れる日が来るのだろう。
エゴだろうがなんだろうが、生きててほしい気持ちを押しつける日が来るのだろう。
失うことへの怖れと同時に、生を切に願い、そんな自らに驚く日が来るのだろう。
そして自分は、なにかの折につけて思い出す。
迷わず止めなかったことも。
迷って止めなかったことも。
どうしようもない恐怖に、生きてほしいと切願したことも。
こうして自分は、死の尊重と生の切望を揺蕩う。
自分は今日も、追い抜かした未来を、現在で繰り返し想像する。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?