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【短編小説】サン・フェリペの残影

 夏の夕方は晴れていればほぼ毎日、祖父は投網を持って鏡川へと堤を降りていった。僕と、柴犬と何かの雑種のリキが付き従う。祖父の住んでいた家は高知市中心部からやや西、太平洋戦争の空襲で奇跡的に焼け残った区画の端、鏡川北岸の堤防下にあった。
 リキは猟犬としてもらわれてきた。しかし、山で一度、鼻っ面を蝮に噛まれてぼったりと腫らして以来、すっかり山行きを嫌がるようになって、猟犬としては役に立たなくなった。そのかわりなのかどうか水は恐れず、網を打つ祖父についてざぶざぶと川面に入って行く。
 祖父は鮎を狙って網を打つ。
 網に掛かった鮎を器用に次々と外すと、僕のほうへと放り投げる。その鮎を拾い集めて魚籠(びく)に入れるのが、当時まだ小学校三、四年生くらいだった僕の役割だった。
 畳職人だった祖父の趣味は川漁と川、海での釣りだった。若い頃は趣味が高じて小さいながらも和船も一艘持っていたらしく、櫓を漕ぐ技は達人の域に達していた。
 彼は鏡川と、鏡川が流れ込む浦戸湾に驚くほど通じていた。春先のアメゴ、初夏からの鮎、盛夏のテナガエビ、秋のハゼ、エバ、ニロギ、冬のチヌといったふうに、鏡川と、鏡川が流れ込む浦戸湾で釣れる魚などを季節ごとにどこで釣れるかを正確に把握していた。休みには釣り道具を担いで、古いスバルの軽自動車や、ホンダの原付であちこちへと出掛けていた。
 これは趣味だったのかどうか、祖父は伝説や古い信仰を探求するのも好きだった。
 彼が唱えた最大級のスケールの持論は、「古代中国の揚子江下流域から日本へ来た民族が、稲作と一緒に、現世と死後の世界の間には水が流れているという信仰を伝えた」という論だ。
 青くすがすがしい藺草(いぐさ)の香りが籠もった仕事場で夜、日本酒を飲みながら彼は僕によく語った。両親が共働きだった僕は、夜は祖父の家で過ごすことが多く、祖母が盛ったネイリやハツの刺身、カツオのたたきを食べながら、祖父の話し相手になった。
 「由(ゆう)、日本人はどこから来たか知っちゅうか?」
 朝鮮半島からやろ、と本で読んだか、教師から教わった知識で僕が答える。すると、祖父は「それも一つの道筋やが」と言いながら自説を述べる。
 彼によるとある人々は確かに朝鮮半島からだが、南方から琉球を経てやって来た人々、中国・江南から直接海を渡って来た人々、中国東北部から日本海を横切り能登半島へ上陸した人々、樺太や千島列島から北海道へ南下してきた人々、マリアナ諸島から小笠原諸島を経由して伊豆半島に上陸した人々が混ざって日本人になったらしい。そして酩酊しながら彼はよくこう締めくくった。
 「わしら高知の人間はな、遠くインドネシアとか中国東北部にご先祖がおるんや」
 民族学、遺伝学といった学術的には祖父の語る説はどこまで正しいかは分からない。、今日ではさまざまな説があるだろう。しかし、彼は南方から来た民族の血がひときわ濃いのが高知県人だ、と胸を張っていた。
 祖父によると、高知県内に伝わる伝説や民俗にも南の島から来た祖先の面影があるという。例えば、美しすぎて不幸になる漁師の娘の話や、真冬に若い衆に水を掛ける神事、昭和二十年代まで存在していたという「若衆宿」。これらは流れ着いた土佐人の遠い祖先が伝えた、遙か南の島々に彼らがいたころの痕跡らしい。
 祖父の語る説を、少年の頃の僕は彼が飼っている猫の「ちょび」を手飼いながら、ふんふんと生返事で聞いていた。余談だが、ちょびは時々、祖父が作った畳で容赦なく爪を研いでいた。せっかく誂えた畳表が無惨に切り裂かれていたりするのだが、祖父は「猫に怒ったちしょうがないし、仕事場に入るようにしちゅう俺がいかんわ」と言っては特に怒るでもなく、また、ちょびが仕事場に入れなくするのでもなかった。猫にはことのほか甘く、一度、晩酌のあての鶏の照り焼きをちょびが奪うように食べてしまったこともあったが、祖父は怒らなかった。しかし、鶏の味を覚えてしまったちょびにはしばしば、油断すると僕が夕飯のオカズを奪われることになってしまった。
 後年、自分が大人になるにつれて、祖父の語る説はあながち根拠がないわけではなかったと知る。
 不幸になる漁師の娘の話は、偶然、県東部をバイクでツーリング中に実際に県内に伝わっていることを知った。バイクの免許を取り立ての高一くらいの頃だったと思う。はっきりと場所は思いだせないが、確か室戸市内に入るか入らないかのあたりだ。国道沿いにバイクを停めて一休みしていると、地域の歴史や伝説を紹介している地元の教育委員会だかなにかが設置した看板があった。それによると、地元の漁師の娘某はあまりの美貌に言い寄る男が絶えなかった。次々と言い寄られて煩わしくなったその娘は、「この周辺に自分より後の世は、美しい女は生まれないように」と願を掛けて自ら命を絶ったという。その後その土地に生まれる女性と、彼女達と恋に落ちる男性にはなんとも迷惑な願いだ。
 県西部に伝わるという、正月に地域の若い男性に水をかける祭りは、似たようなのをテレビの旅番組で見た。水を掛けるのは死と再生のイニシエーションという意味らしく、インドネシアかどこかの島で盛大に水を掛け合う祭りがあるらしかった。案外、お釈迦様の像に甘茶を掛ける祭りも起源は同じだろうか。
 未婚の男性が集団生活をする若衆宿の風習は県内だけでなく、三重県などにも伝わっていたらしい。若衆宿を根城にしている青年らが夜毎、気に入った若い女性のいる家へ「夜這い」に行き、晴れて夫婦となると宿での生活を卒業する。今思うと、祖父はまだ男女のことをあまり知らないと判断したのか、「夜這い」の説明を僕に話す時は省いていたようだ。祖父なりの「教育的配慮」ってやつかも。それにしても、奥さんをもらうのが若衆宿での共同生活を終える条件とすれば、いつまでも若衆宿から卒業できない男はかなり切ない気がする。
 若衆宿に関しては驚きが一つある。
 磯釣りで県西部に行った時、若衆宿を復元したという「浜田の泊屋」なる建築物を宿毛市内で見た。この時はふーんと感心する程度だったが、後年、ダイバーとなってミクロネシアのヤップ島を訪れた時、「メンズハウス」と呼ばれる高床式の建物を見た。現地の若い男性が共同生活を行っていたという生活様式や、草葺きの屋根が「浜田の泊屋」とウリ二つだった。
 基本的には南方から来た土佐人の先祖話が多かったが、後年になると「土佐人中国北方起源説」、「幡多人渡来人説」も祖父は語った。
 祖父によると、県西部に多い名前に「白」という字が着く神社は、中国東北部から能登半島あたりを経由して、雪の積もった山を信仰する部族が幡多のほうに住み着いた形跡という。「これは勝手な推測やが」と言葉を継いで、「幡多ゆう言葉も朝鮮半島で『海』を意味する言葉やったという「パタ」からきちゅうかもしれんな」そう祖父は付け足した。
 これらの祖父の語った壮大な土佐人起源論は、いまだ僕の名かでは消化不良だ。
 小・中学校は夕飯から夜半までを祖父と過ごすことが多かったが、高校生くらいになると自宅で夜、一人で過ごすことも増えた。そうなると今度は祖父は「由、釣りに付き合え」と誘ってくることが増えた。
 高2の秋だったと思う。祖父に浦戸湾へのニロギ釣りに連れて行かれた。さすがにこの頃は祖父もやや体力に衰えが見え始め、一人で水辺へ行かすのは危険だと、母や祖母に極力一緒に行くように言われることが増えた。
 ニロギは群にあたれば二人で三ケタは軽く釣れる。すまし汁の具に母や祖母も喜んだし、祖父は小さいのを一日干しにしてあぶり、酢醤油で食べながら日本酒を楽しんでいた。
 貸し舟に二人並んで、釣り糸を垂れていると、祖父がおもむろに口を開いた。
 「由、サン・フェリペ号って聞いたことあるか」
 安土桃山時代頃に浦戸湾に流れ着いたスペインの船やろ、と僕が答えると、「そうや」と答えた後、祖父は不思議な話をした。
 祖父がまだ二十代で。浦戸湾も後の公害騒ぎも嘘のようにきれいだった頃の話だ。
 ある晩秋の日に祖父が一人で浦戸湾にこぎ出して釣りをしていた。その日は本当に珍しいくらい水が澄んでいた。水が澄みすぎると魚も釣れないもので、祖父は湾内のあちこちを移動しながら釣れる場所を探していたという。現在、浦戸大橋が架かっている場所からやや西向きのあたりに錨をおろそうとした時、水の中に巨大な柱のような巨木が沈んでいるのが見えたらしい。おや、と思ってよく見ようと舟べりから身を乗り出そうとしたところ、さあっと水面を風ともいえないような何らかの気配が伝わった。異様さを感じて、あたりを見回したところ、湾の西奥部のほうがら鈍い銅鑼を鳴らすような「ジャン」という音が鳴り響いたそうだ。するとそれまで嘘のように澄んでいた湾の水はさあっと濁り、先ほど見えていた水中の巨木もまったく見えなくなったという。
 「わしは『孕のジャン』を体験するとほぼ同時に、サン・フェリペ号の残骸と見たわけよ」
 孕のジャンは寺田寅彦も何かに書いていた地鳴りの一種とも言われる現象だ。サン・フェリペ号は漂着の後、マニラに帰っているので祖父の目撃した水中の巨木は何かは分からない。仮に修復の際に切り倒されたサン・フェリペ号のマストにしても三百五十年も前の木が海中にそのままあるだろうか。
 「由、ボートの免許を取って、わしに楽に釣らせてくれや」
 祖父はその不思議な話を終えると、そう会話を締めくくった。

 祖父は最後は大往生とも言っていい人生の終え方だった。
 大学生になって東京にいた僕は祖父の最後には立ち会っていない。急遽帰った葬儀で祖母から祖父が亡くなった様子を聞いた。
 晩春の、亡くなる前の晩、一度布団に入った祖父は珍しく寝惚けて起きてきたという。
 祖母が洗い物などをしていると、「わしの舟しらんか」と聞いてきたという。「舟なんか持っちゃあせんろう」と答えると、祖父も我に帰ったらしく、「ああ」と小さく頷いて布団に戻った。翌朝も普通に起きて朝食を食べ、「そろそろ投網の破れも直しちょくか」とかつての仕事場で網を繕い始めた。昼時になって、昼食の声を掛けに祖母が仕事場へ行くと、座って網を繕う姿勢のまま、穏やかな表情でその心臓を停止させていたという。
 祖父の遺影を見ながら祖母が言った。
 「舟の上手い人やき、さっさとあの世の川も漕いで渡ってしもうたろうね」
 器用に櫓を漕ぐ祖父の姿が思い出された。川面に魚影でも映れば、すばやく網を投げてあの世の魚も捕まえているかもしれない。

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