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【短編小説】春風

 やわらかい日差しが降り注いでいる。雲一つない青空は、春霞なのか黄砂のせいなのか少しくすんでいて、高一の遠足で行った美術館で見たオールドノリタケの青を思い出させた。空気はまだほんのわずかに冬の装いを残してはいるけど、ここ数日、日中のこの時間は日なたならシャツ一枚でも平気でいられる。
 僕たちは小さな漁港を抱きかかえるように沖に突き出た突堤の先端にいる。普段からあまり活気のない寂れた漁港な上に、午後のこの時間帯はたいていの漁師は家で寝ているのか、まるで時間が止まったように静かだ。岸壁では、夫婦と思われるお年寄り二人がサビキの仕掛けを垂らしているが、さっきから何も針に掛かる様子はない。普段はおこぼれに預かっている漁港に居着いた野良猫も、「きょうは何ももらえそうにないな」と言わんばかりに、二人の後ろで眠そうに目を細めてコンクリートの日溜まりに身を横たえている。
 漁港の背後は急な崖になっていて、上昇気流に身を任せて空中に浮かんでいる鳶が時折響かせるピィーという鳴き声だけが音らしい音だった。ベタ凪なので、波音も聞こえない。崖の所々は薄いピンク色に変わり始めている。ソメイヨシノの蕾だろう。あと十日足らずで、鮮やかな花びらで崖は彩られる。
 港の東北角には漁協の小さな施設が建っている。漁協側の岸壁には漁船が十隻余り係留されていて、一番左端には佐織の父親の舟が穏やかな波に揺られている。建物横の駐輪場には、自転車が二台だけ置かれている。一台は僕の、もう片方は佐織のだ。佐織は灯台に背中を預けて、さっきから黙って前髪を指でいじっている。枝毛になりやすいことを気にしている彼女の癖だった。
 それにしても風もなく暖かい。極端に冷え込んだ数日を除いて、去年の秋からこの冬は比較的暖かく、あまり冬らしくないままに終わろうとしている。
 春になれば僕たちは生まれ育ったこの土地を離れて、僕は名古屋、佐織は東京で新しい生活を始める。
 「なにしよった? 一月からこっち」
 髪の毛をいじるのをやめて、佐織が聞いてきた。僕たちが通っていた私立高校は一月末に卒業式だった。卒業式のあとは僕も佐織も大阪、名古屋、東京と大学入試で転々と慌ただしく、こうやってゆっくり顔を合わせるのは久しぶりだった。お互いの受験校も知っているし、会えない間もLINEやメールのやりとりで大体の状況は分かっている。だから、本当は改めて、何をしていたかを聞くようなことはないはずだった。
 僕たちは高一の秋から付き合っている。クラスは別々だったが、夏休み明けにお互いクラスメートに無理矢理押し付けられた文化祭の実行委員会で知り合った。文化祭が近づくにつれて顔を合わせたり、話す機会が多くなり、文化祭が終わったその夜、佐織が僕に告白してくれた。それから二年半経つ。
 今日の佐織は薄く化粧していた。身に付けている服もどこか垢抜けている。二カ月前までのすっぴんに制服姿だった頃にくらべたら、急速に大人の雰囲気を身に纏い始めていた。
 「メイク、佐古田さんに教えてもらったがって。服も選んでもろうた。似合におうちゅう?」
 会ってすぐ、彼女の顔を見つめて軽く息を飲んだ僕に、少し照れるように言った。佐古田さんは二学年上の割と僕ら二人とも親しかった先輩で、高校を卒業したあと市内の美容師の専門学校に通っている。僕の「うん、とても」という返事に、佐織は小さく息を吐きながら「良かった」と言った。
 その後は沈黙が続きがちだ。
 久しぶりに会っているのに、思い浮かぶ話題がない。
 海面をすーっと小魚の群が走った。
 「修ちゃんは引っ越しの準備、進みゆう?」
 「ううん、これから。自動車学校行きよったき。でも、家具家電付きの学生向けアパートに決めてきちゅうき、そんなに構えるものはないかも」
 そっか。そう呟いて、佐織はまた前髪に指をやった。
 「あたしはもう、全部終わっちゅう。こないだ東京行った時に荷物も運び込んだき、あとは身一つで行くだけ」
 「東京、どうやった」
 「人が多すぎて気持ち悪うなった。あたし、あんなところでやっていけるろうか」
 それは大丈夫だろう。僕と違って、佐織は頭が良くなんでも器用にこなす。都会になじむのも早いだろう。「二人で一緒に東京行こうね」という僕たちの密かな目標も、佐織は早々に都内の第一志望に合格したが、僕は辛うじて滑り止めの愛知の公立大に引っかかった程度に終わって、結局は叶えられなかった。
 「先に東京行っちょいて。仮面浪人して来年第一志望を受け直すとか、編入で行くとかして、あとから行くき」
 一浪して都内の大学に再チャレンジすると両親に言うと、猛反対された。とりあえず名古屋に行って、そのあとは再挑戦か編入試験で学部や専攻など二の次にして、少しでも早く佐織の近くに行こうと思っている。
 「ゴールデンウイークは帰省する?」
 「多分、ムリ。上京して二カ月じゃ、旅費が…」
 「東京遊びに行ったら泊めてくれる?」
 「女子学生専用マンションやきダメやと思う。男子禁制」
 「不自由ながやね」
 「お父さんが強引に決めたきね。けど、安心といえば安心かも」
 佐織の父親は強面で声が大きく、おっかない印象しかない。一人っ子なので、父親の愛情も一身に受けているはずだ。
 「東京行く日の朝、空港まで送ってってよ」
 「家族が見送りに、一緒に行くがやないが」
 「ううん。家を出るとこまででえいってうちゅう。それに」
 「それに?」
 「なんでもない」
 その頃には免許も取れているはずだ。空港に送っていくのが、佐織との初めてのドライブになる。その次はいつになるのだろう。
 「結局、佐織は自動車学校行かんかったがやね」
 「東京やったらいらんやろし」
 僕はまだ少し、自分たちが一人暮らしをし、車を運転する年になったということにアタマがついてきていない。しかし、そんな僕のアタマの速度とは無関係に、地元での残り少ない日々は過ぎ去りつつある。
 駐輪場に目をやった。二人でどこへ行くにも一緒だった二台のママチャリが、すっかりその役目をほかの何かに譲ろうとしている。
 風が出てきた。
 僕らは突堤の先から駐輪場へと戻った。
 「後ろ、積んでって」
 「佐織のチャリは」
 「お父さんが漁に出る時軽トラでここまで来るき、積んで帰ってきてもらう」
 漁港から佐織の家までは海沿いの県道を西に向かう。漁港の西側には浅い入り江になった場所がある。波静かな入り江は僕らの高校の漕艇部の練習場所になっていて、浜には艇庫もあった。僕も去年の県体までは毎日のように来て、練習をしていた。
 入り江を通り過ぎていると、海に浮かんでいるボートから、「せんぱーい」と呼び掛ける声が聞こえた。二学年下のマネージャーだ。
 「おー」
 返事をしながら手を振ると、
 「相変わらず、仲いですねー」
と、冷やかす声が響いた。
 「そういえばあたしの大学、四月に入ってすぐにライバル校とのレガッタ対抗戦があるって」
 入学案内のパンフレットには川沿いの土手の鮮やかな桜並木と併走する二挺の綺麗な写真が掲載されていたらしい。
 「この春はさすがにムリやけど、来年の春はそれ見に行けるように上京しちょきたいな」
 「うん。待ちゆう」
 県道からはずれて、佐織の家へと続く砂利道に入った。ガタガタと揺れながら、自転車が走る。
 「修ちゃん、この二年で背すごい伸びたでね」
 確かに、付き合い始めの頃から比べると僕は十五センチ近く背が伸びた。佐織は出会ったころからほとんど変わっていない。中学二年の頃に一気に伸びて、その後は伸びなかったようだ。言ってみれば背丈も顔立ちも、佐織は出会った頃にほとんど完成形だった。なのに今日、佐織の化粧をした顔にちょっと動揺した。まだ、変わっていく余地があったということに驚いた。多分、髪型や着る服なんかでこれからもぐっと大人っぽくなるのだろう。
 「修ちゃん」
 「なに?」
 「はよう、東京来てね」
 「うん」
 「でないと、あたし」
 「ん?」
 「あたし、自信ない」
 思わすブレーキレバーを強く握った。キッ、と音を上げて自転車が急停止する。弾みで佐織の額が僕の背中に当たる。後ろを振り返ろうとしたら、「こっちを見ないで」と言わんばかりに佐織が額をぐっと背中に押し付けて、振り向けなくした。
 ざあーっと風が吹いた。微かに、甘い花びらの香りを含んでいた。

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