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(9)帰宅

 家に着いたころにはもうくたくたで、玄関では突っかけていたサンダルを揃える元気もなかった。細い通路、壁に寄りかかって、イヤホンの音量を少しだけ下げる。心を整える。ちょうどいい音の大きさ、聴く曲も変える。美しい声、美しいギター、美しいベース、美しいドラム。包まれる。不安がない。かすれたボーカルの「おかえり」という歌詞。ただいま、と呟く。帰ってきた。きょうも無事帰ってこられた。
 深く息を吐いて、それから吸い直す。
 イヤホンを外して、リュックサックのポケットの中のケースにしまう。サンダルの向きを揃える。スリッパを履いて、リュックとエコバッグを持ち、リュックをリビングのテーブルへ、エコバッグを台所の床に仮置きする。
 そのままの足で洗面所へ向かい、石鹸で丁寧に手を洗い、三回うがいをする。
 鏡を見る。たかが買い物ごときで疲れ切った自分の顔は、化粧で誤魔化されている。前髪が少し乱れていた。手櫛で直す。じっと目を見て、まだやれそうか、と訊ねる。敢えて返事は待たずに、洗面所を離れた。

 エコバッグの中身をしまっていく。常温保存の野菜はパントリー代わりの棚に、冷やすべき野菜は野菜室、肉は一回分ずつラップに分けて冷凍、今晩は鱈を焼こうと思うから、ひと切れ残して同様にラップに包んで鯖と共に冷凍庫へ入れた。
 ドラッグストアで買ってきたものたちも適所にしまってから、リビングに戻って丁寧にエコバッグをまとめる。畳んで、畳んで、くるくると丸めて、バンドで留める。リュックサックにしまって、今度は財布を開ける。会計はQRコード決算ばかり使っているが、レシートは必ず出るから、財布は買い物のたびに結局開ける。
 家計簿はスマートフォンでつけていた。きょうは特売を狙えたから、思っていた通り安く済んだ。今月の支出を眺める。悪くない。

 節約についても、真剣に考えていた。働いていない、貯蓄を切り崩し、親の仕送りで生きている人間が贅沢な暮らしなんて到底不可能だ。買うより作るほうが安いものはそうするし、迷ったら買わない。服は洗い回せる分があるなら着回しで充分なんとかなるし、髪の毛も染めようとは思わない。ショートヘアだから月に一回は整えに行くけれど、それも三千円ほどの店で、それすら高いと感じてもう少し何とかならないかと時々スマートフォンでもっと安い店ができていないか検索している。
 外食なんて、もう何ヶ月もしていない。誘ってくれる人もいないし、したいとも思えない。よく言えば賑やかで、悪く言えば騒がしい。高級店以外は大体そんなものだし、高級店に行けるほど裕福なんかじゃないし、そもそもファミリーレストランすら私には恐怖の対象だ。子どもがいる。
 私はきっと一生子どもと暮らす生活なんかできないんだろうな。先ほどのスーパーマーケットの児童を思い出す。頭の中で金切り声がフラッシュバックして、思わず眉を顰める。あの子が悪いわけじゃない。あの子が悪いわけじゃないから。自分を自分で正す。そこだけは、間違ってはならない。


(続)

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