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6:烏龍茶とワインと

レーズンとオウムとミイラのワルツ_


 午後六時五十分、約束の時間よりも二十分遅れでいおり君が現れる。ごめん待った? と彼が申し訳なさそうに眉尻を下げ、私は「全然」と笑顔で嘘を吐いた。
 いおり君がポケットから財布とスマートフォンを取り出し、私の真向かいに座ったタイミングでメニュー表を渡すと、彼は私に一言礼を言ってそれを受け取る。いおり君はものの数秒で夕飯を決めたらしく、私に「茜ちゃんは?」と訊ねた。ざっとページを眺めながら、じゃあシーフードドリアと烏龍茶にしようかな、とあらかじめ決めておいたメニューを伝えると、彼はテーブルの隅にあるボタンを押し、数十秒で現れたチープな制服姿の店員に、
「シーフードドリアと烏龍茶一つ。あとはボンゴレパスタと……茜ちゃん、俺飲んでも大丈夫?」
「え? あ、ああ、うん」
「ありがとう。じゃあ、このワインも」
 店員はメニューを復唱し、私達が頷いたのを見届けると深々頭を下げ厨房へと戻っていく。
 彼は慣れた様子でワインを注文していた。いおり君も私もまだ十八歳になったばかりで、私達はどこか幼い顔つきをしている。店員は何も言わなかった。私は深く考えないことに決める。
「まさか茜ちゃんとまた会えるなんて、思ってもなかった」
「本当。でもよく私だってわかったね。私、あのころみたいに髪も長くないのに。そもそも十年も経ってるんだよ」
「俺、変に物事を記憶しておくの得意でさ。レジ打ちしてても、あーこの客は週に一回二本ずつ牛乳買ってくけど今日は違うメーカーのにしたんだなあとか、この客はいつも違う男を連れてくるしそのたび服装が全然違うなあとか。店にくる客の顔だって二、三回で大体覚えちゃうんだよね。ははは、これ俺の自慢ね。まあそれに、茜ちゃんは、ほら、なんていうかさ……」
「あはは。うん、悪い意味で注目浴びたまま転校したからねえ、私は」
 私が自らの過去を茶化すように軽く笑う。
 あの日から私が少しずつ学んだ自衛手段の一つがこれだった。

 被害者という存在は、時間が経つにつれ被害者ぶることを断罪されるようになってしまう。弱者はいつだってその場に留まり続けることを許してはもらえない。
 私達は日々、ほんの僅かだけでも前進していくことを外部の人間から強要される。過去は清算すべきだと無下に諭される。私の負の感情は、まるでおもちゃの流行り廃りみたいに彼らが一方的に消費していく。

 私の笑い顔を見、いおり君はぎゅっと口を一文字に結ぶとテーブルの上で組んだ自身の両手に目線を下げた。それからゆっくりと、一つ一つ言葉を選ぶようにして、
「あの……正直、俺、今でもあのときのことほとんど完璧に覚えてんだよね。先生の驚いたした顔とか、教室のどよめく空気とか、全部。熱が出た日なんか夢にも見るし。だから、茜ちゃんのこともすぐにわかったよ」
 ゆめにもみるし。私は彼の言葉を心の中で復唱する。
 今の彼はどこかが痛そうな顔ではなかった。けれど彼の中にはあの日の教室が未だそのままの状態で冷凍保存され、熱に浮かされる、というトリガーによって本人の意思とは関係なく一時的に解凍されてしまうらしかった。目が覚めたときの彼の心中を想像する。ただ、申し訳ない、と思った。
 いおり君は頻繁に私の顔を窺いながら、慎重に、今まで蓄積してきたであろう感情を一つずつ吐露する。
「みんな、最初は茜ちゃんのこと心配してた。茜ちゃん大丈夫かな、元気かなって。まあ、なんていうか、俺らは完全に子どもだったけど、だからこそ純粋に、あのときは茜ちゃんのこと友達だって思ってたんだよな。
 一回、クラスの皆で相談して、茜ちゃんに手紙書いたこともあるんだよ。何日もかけて、皆それぞれに書き終わってさ、それを大きな封筒にひとまとめにしてから先生に『茜ちゃんに渡してくれませんか』って訴えたんだけど、残念ですがそれはできませんって突き返されて。どれだけ文句言っても先生、理由を教えてくれなかったんだけど、まあ、今ならなんとなくわかる気もするんだよ。
 はは、子どもって明確な悪意がない分より残酷なんだよね……そのあとはなんとなくみんな、茜ちゃんのことを話すのはタブーな気がしちゃったのかな。そのうち学年が上がってクラスも変わって、あとはもうなあなあって感じで」
 私は私が削除されたあとのクラスについてイメージしてみる。
 私の席は毎日空っぽのままで、机の中には少しずつ家族へのおたよりだのその日の宿題だのイベントごとのお知らせだの、さまざまなものが積み重ねられていく。そこが満杯になったころ先生は私の転校をその理由を述べずに告げ、クラスはまたざわめきに包まれる。
 けれど、私という存在が欠落したクラスはそれでも円滑に進んでいくのだ。徐々に皆は私の声を忘れ、顔を忘れ、名字を忘れ、名前を忘れ、最後には私そのものを忘れ去った。
 そのうえでいおり君は、忘れる、という行為そのものに忘れられたのだ。
 彼は時折あの日を夢で反芻し、私のことを今日まで忘れられずにいる。
 私は彼に何と言えばいいのか、見当もつかなかった。ごめんね、は違うし、君は大丈夫なの、でもお節介だろう。ありがとう、など見当外れでしかないはずだ。
 結局私は、
「そうだったんだね」
 としか伝えられない。
 ちょうどそのタイミングでいおり君のパスタとワイン、私には烏龍茶が届き、私達は無言で各々のグラスに口をつけた。私のドリアが到着したころには、私達は円滑に会話を再開できていたけれど、二人とも当たり障りのないことのみをピックアップし、表面的な部分を優しく撫でるように話した。
「茜ちゃんは、今は学生?」
「ううん、パン屋でバイトしてる。でもこの前ちょっと倒れちゃって。二週間のお休みもらってるところなんだけど、もう何していいかわかんないんだよね」
「え、倒れた? 大丈夫なの?」
「え? ああそっか、そうだよね。あはは、ただの貧血。ほら、一応私も女性なんで」
「あ……えっと、ごめん」
「いえいえ、ありがとう。でもほんと、こういうところが面倒なんだよね、女って生き物はさ」
 嘘だった。医者からはフラッシュバックによる強烈なストレスが原因だと言われてある。帰り際看護師から、お大事に、と呟かれたことを思い出している。一体私は私の何を大事にすればいいのだろう。
 店を出、それじゃあ、と私が帰ろうとすると、いおり君が家まで送っていくと言い私の横をついてきた。ひとりで大丈夫だと何度か断ってみたが彼は自らの言葉を曲げようとはせず、執拗に私へ自宅まで誘導するよう促す。最終的には私が折れ、私達はゆっくりと夜を掻き分けて歩いた。
 茜ちゃんはさあ、これから何して生きてくつもりなの。
 脈絡もなく、いおり君が言う。私は彼が自らのこれからの話をしたがっていることを理解し、まだよくわかんないんだよねえ、と簡潔に自分の話を終えてやった。案の定いおり君は、俺はさ、と意味深に前置きし、
「文章を書きたいんだ」
 自身のこれからの話を呟き始めた。ぶんしょう、と私が繰り返し、彼は続ける。
「うん。文章。なんていうか……小説とか詩とかじゃなくてさ、みんなは知らないけど本当にあった出来事を、みんなに知らせたいんだ。ええと、ノンフィクション作品って言えばいいのかな、だけどそれは小説という形でない方がいい気がしてるんだ。事実を“事実”としてのみ羅列してあるものを書きたいんだよ。俺は、過不足のない事実を、文章に変換するっていう、ツールになりたい」
 彼の言葉が終了し、夜の無音が再び私達を取り囲む。そうかあ、いおり君は文筆家になるのかあ。闇を潰すためだけの私の呟きに対し、いおり君は「あくまでも理想だけどね」と付け加え、それからはっとした表情で、
「あ、でもべつに茜ちゃんの昔の話を根掘り葉掘り聞こうとか、そういう意味で今こうしてここにいるわけじゃなくて、だからそういうつもりでご飯食べようって言ったわけでもなくてさ、これは単純に旧友と会えて嬉しかったっていう、なんかそういう……」
「あはは、わかってる、わかってる。心配しないで。大丈夫だよ」
 私のアパートに着く。いおり君はこれ以上余分なことを言うつもりも、私の家に立ち寄るつもりもないようだった。私は一応礼儀として、
「たまに、連絡してもいい?」
 いおり君のポケットに納まっているスマートフォンを指差しながら言った。いおり君は、勿論、俺すっげー待ってるから、と弾けるように笑い、そのまま右手を振って私の前から小走りで去っていった。
 約一時間後、シャワーを出てスマートフォンを確認すると、いおり君から一通のメッセージが届いていた。
 食事の礼と、喋りすぎたことへの非礼を簡潔に詫びたその文章に、すっごく楽しかったよ、また一緒にご飯食べたいな、などという突き詰めてありきたりな言葉を返し、既読がつくか確認もせずに布団へ潜り込む。しばらくするとスマートフォンは再びメッセージが届いたことを振動で伝えてきたが起き上がるのも億劫で、私は毛布を頭のてっぺんまで引き上げさらに強く目蓋を閉じた。


(続く)

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