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(3)砕けてしまう時

 恋人がいきなり、教師を辞めます、と言ったのは六月の半ばの話だった。校長は無責任だと怒り狂って、でも恋人は、
「父親が大病を患って、治療中で、家業を継がなければならなくなったので。すみません」
 それだけを繰り返し、本当に辞めてしまった。後任の教師探しは本当に大変だったようで、校長、副校長共に、
「こういう身勝手な人間がいるから世の中は駄目になる、今の世代は腐っている」
 と、本人に聞こえるように、本人が退職するその日まで言い続けた。
 恋人は本当に田舎に帰ってしまって、私達は自然と別れるしかなかった。とはいえ元々、彼は私のことを「ちょうどいいところに在ったから」恋人にしていただけだったし、私もそれは心のどこかで気づいてしまっていた。私たちは結局、本当に好きあっていたのかよくわからないけれど、とにかく、そういう流れで簡単に縁が切れた。


 恋人だった男が実家に引っ越して数週間したころ、私の受け持つクラスで大きないじめが発覚した。それはひどく陰湿で、金銭も絡んでいたため、私は四方八方から蜂の巣にされた。
「どうして気づかなかったんですか」
「うちの子にも悪い影響が出たらどうしてくれるんですか」
「主犯格の子はいなくなってくれるんですか」
「主犯格だけがいなくなればいいと思っているんですか」
「そんな浅い考えで済む問題だと思っているんですか」
「先生がしっかりしていないから、こんな重大なことが起きるんじゃないですか」
 いじめを傍観していた子たちの親が、こぞって私を責める。
 どうして気づかなかったんですか。
 気づかないように隠れてやるくらいには、子どもだって陰湿で残酷で下劣なんです。つまり、私やあなたと一緒です。あなたも、陰湿で、残酷で、下劣です。

 言えない。
 言えるはずがない。
 私はひたすら頭を下げ続けた。申し訳ございません。不徳の致すところです。お詫びの言葉もございません。謝る、という作業をする機械に成り下がっていく。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 一人でいても、心から謝罪の言葉が湧いてくる。電車を待ちながら、飛び込んだらどうなるかを想像する。大型バスやトラックを見るたび、真ん前に飛び出してみたくなる。
 いじめを見逃した私が、今、いじめられている。わかっている。仕方がないのだ。仕方がないのか? 仕方がないってなんだ? 仕方のないことと決めるのは誰だ? 私以外の人間が、私のことを一方的に判断する。判断して、断罪して、心をぐしゃぐしゃに握り潰して、次の人に渡して、すり潰して、また次の人に渡して、毒を混ぜて、また次の人に渡して、ゴミ箱に放り込んで、他のゴミと一緒に、言う。
「責任を取ってください」
 死ね、と言われている気がしてならなかった。

 朝。裸足で、欄干の下で、部屋着で蹲っているところでスマートフォンが鳴る。それは職場から、きっとお怒りの電話だ。出勤時間はとうに過ぎている。行きたくない。どうせまたいじめ問題について追及されて、怒鳴られるだけだ。無視をする。ただ座っている。ずっと座っている。私にはもうそれしかできない。
「すみませーん、ちょっといいですか?」
 何時間か経って、話しかけてきたのは警察官だった。
「今、ちょっと巡回していまして。ちょっと様子が気になったので、少しお時間いいですか?」
 私は口を開く。金魚がぱくぱくと餌を食らうみたいに、不器用に、
「……私にも、責任は、取れますか? 死ねば、取れるものなんでしょうか?」
 それが、精一杯だった。ぼろ、と左目から涙が零れて、その瞬間、自分の中の本当に大切な“何か”が半分に割れてしまう甲高い音を聞いた。


(続)

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