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(8)水の音

 肌によい成分でできた日焼け止めを分厚く塗って、薄手の白いカーディガンを着て、つばの広い麦藁の帽子を被って、リュックサックの中には複数のエコバッグを入れて、サンダルをつっかける。スマートフォンとBluetoothのイヤホンを連動させて、気に入りの、賑やかしい、けれど気に入りのバンドのアルバムをセットする。大きな音で誤魔化さなければ、一人で外も出歩けない。
 ふ、と短く息を吐いて気合を入れる。鍵を開けて、ゆっくりと一歩外へ出る。日差しはすでに眩しい。慌てて日傘を取る。身体をドアの外に追い出して、鍵を閉め直す。きょうは、ドラッグストアと、スーパーへ行く。往復で、大体三キロ半。水筒も持ってある。
 きっと大丈夫、何もない、何も起きない、何も悪いことはない。自分に呪文を唱える。買い物をするだけ。生活用品を揃えるだけ。何度も教え込みながら、藪の中を手探りで進むように、存在しない、見えない化け物に怯えながら道を往く。
 私はまだ、外が怖い。

 ドラッグストアに辿り着いたころには汗だくで、入り口脇で水筒に入れてきた冷たい麦茶を何口も飲んだ。
 風呂掃除用のミストスプレーと、トイレ掃除用の使い捨てスポンジ、地域指定のゴミ袋をかごに入れ、一応の用事は済む。少しだけ菓子コーナーとジュース売り場をふらついて熱を抱え過ぎた身体を冷やして、頃合いを見て片耳だけイヤホンを外し、レジへ向かう。店員としっかり目を合わせることはできない。ポイントカードをスマートフォンで提示し、支払いもQRコード支払いでできる限り手早く済ませる。会計が終わり、店員の、ありがとうございました、の一言には頭を下げることで返事とする。
 サッカー台で買ってきたものをエコバッグに詰め、空になったかごを指定の場所に置き、逃げるように店を出る。
 店の外、先ほど麦茶を飲んだ場所と同じところに立ち、大きく溜め息を吐く。こそこそと、まるで罪人のような動きをしている気がしてならない。何も悪いことなんてしていないのに。
 あのレジの人が私に何か加害するなんて思っていない。思ってなんていないけれど、それでも、怖くてたまらないのだ。私は私を壊してしまってからずっと、他人が、皆、怖い。

 私が歩いて行ける距離にある唯一のスーパーマーケットは、この辺りで一番大きい。おかげで大体の食材は揃うし、食べるに困ったらどうしよう、といった恐怖を薄くしてくれる。
 いつも三、四日分の食材をまとめて買う。その日安いものを適当に選んでいって、家に帰ってそれを見ながら献立を組む。元々料理は得意だったから、それを苦に思うことはない。きょうは玉葱と、もやしと、じゃがいもと、切り身の鯖と鱈、豚のこま肉、あとは麦茶のパックを買った。
 店内では幼稚園かそれより少し手前か、小さな子どもが狂ったように叫びながら一人でかけっこをしていた。ママァー! と奇声を上げて、母親が「静かにしてよ! 知らない人に怒られたいの!」とピントのずれた指摘を、やはり奇声かのごとく大声で叫んでいた。あの子どもをうっかり転ばせてしまったら、私は怪我をさせたと言われて罪に問われるのかな、などと考える。
 躾くらい家庭でやれよな。かつての恋人がそんなことを言っていた気がする。違うよ、とそうじゃないんだよ。心で思う。躾ける側も、躾けられてないから躾けようがないんだよ。連なった不幸っていうものは、常に起こっているんだよ。本人たちには決して伝えられないけれど。そんなことを思う。
 どうかいつか、例外だらけの世界になりますように。皆が優しく在れますように。皆が美しい身で生きていけますように。私みたいな、冷たい人間なんて死に絶えますように。そう祈りながら、イヤホンの音量を二段階上げた。
 ああ、仮に音が水だったとして、私は大波に飲み込まれている。



(続)

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