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苫小牧の佐和子

最近、行きつけの店・Sミットストアで
生のビーツを見かけるようになった。
ビーツといえば缶詰、と思っていたけれど、時代は動いているのだ。
私が子どもの頃はマッシュルームだって缶詰だったし、
牛肉はごちそうだった。
時代の波に乗り遅れないため、
生のビーツと牛肉でボルシチをつくることにした。

考えているうちにボルシチとポトフとピロシキの
区別があいまいになってきたので、
レシピを検索していくつか斜め読みした。
準備完了。
あとは、レシピの自分にとって都合のいい部分だけを
組み合わせて調理すればいい。

生のビーツは、丸ごとゆでたりローストしたりして
皮をむいてから使うもののようだが、
それは味をよりよくするための下ごしらえらしい。
「生でも食べられますが、土っぽい味は好き嫌いが分かれるので、
加熱して皮をむくことをおすすめします」などと説明されている。
なら、省略。
煮込む過程で加熱されるわけだし、
土っぽい味が残ったとしても、私はきらいじゃないし。
……という立派な理由があるので、
ビーツは生のまま皮をむいて鍋に投入した。
下ごしらえを省略したのは、決して面倒くさいからではない。
本当です。

少し煮込んだところで火を止め、ジムに行くことにした。
鍋のふたを開けてみると、美しい!
ポトフだっけ、ピロシキだっけ? と軽く混乱していたが、
鮮やかな赤は、自分が目指しているのが
ボルシチだったことを思い出させてくれた。
予想以上にボルシチっぽくなってきたので、欲が出てきた。
完成度を高めたくなったのだ。

「あると思ったけどなかった」という理由で省略したトマトと、
「買い忘れた」という理由で、なしですませようとしていたサワークリームも
ぜひ仲間入りさせたい。
よし、帰りにトマトとサワークリームを買ってこよう。
私はスキップしながらジムに向かった。

ランニングマシンに走らされているとき、急に不安になってきた。
30分後にここを出るとき、私は買うべきもののことを思い出せるだろうか。
ジムの並びにあるスーパーMは、小規模だけれど、
行きつけのSミットやLイフとは品ぞろえが違う。
たまに行くとつい興奮してしまうため、来店目的を見失う可能性もある。

忘れてはいけない。私は走りながら、自分に言い聞かせた。
トマトと、サワークリーム。トマトと、サワークリーム。
いや、ただ暗記しようとしてもダメだ。
ここは、ひとつにまとめるべきだろう。
トマサワ。トマサワ。
いや、これもダメだ。
意味のない言葉だと、いざというときに思い出せないかもしれない。
「ナクヨうぐいす平安京」のように、
ビジュアルとしても成立する言葉にまとめるのがベストだろう。

トマトと、サワークリーム。
トマ、サワ。
頭の中でくり返すうちに、正解がみつかった。
「苫小牧の佐和子」だ。
曇り空の下、冷たい風が吹きつける港に立つ和服姿の佐和子。
遠洋漁業に向かう海の男である私は、
港を出ていく船の甲板から「苫小牧の女・佐和子」に軽く手を振る。
でもすでにそのとき、私の頭の中は
「ウラジオストクの女・エカテリーナ」のことでいっぱいなのだ。
よし、完璧だ。

30分後、ジムを出た私は、スーパーMに向かった。
入口を入ってすぐ、トマトをかごに入れる。
おっ、ほうれんそうが98円! 
ちょっと待て、パクチーの大束が198円!
そういえば、豆板醤も切れかけてる……。
あちこち寄り道している間も、私は自信にあふれていた。
今日の私は、決してサワークリームを買い忘れることはない。
もう少しだけ待ってろよ、佐和子。
おれは今、荒波をかき分けておまえのところに向かっているぜ。

ニヒルな笑顔を浮かべて、私は乳製品コーナーにたどりついた。
……が。
世の中とは、ままならぬもの。
そこに佐和子はいなかった。

落ち着いて考えれば、わかったはずなのだ。
小規模スーパーであるMに、
サワークリームがある確率はかなり低い。
ああ、無念。

でも海の男は、こんなことでへこたれたりしない。
私はあらためてニヒルな表情をつくりなおし、
サワークリームの代用品を購入した。
「濃密ギリシャヨーグルト パルテノ」だ。
佐和子には会えなかったけれど、
今夜は「アテネの女・アナスタシア」と楽しもう。

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