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誰ともぶつからないから、誰とも仲良くならない。

歳をとるごとに、繋がる「ともだち」の数は減っている。

たまたま、高校時代の日記を見つけた。

読んでみると「Sくんと帰った」「Yと遊んだ」「Kさんから電話がきた」「Tから電話がきた」なんて内容がたった1日の出来事として書かれていた。

それが何日も続いていた。

ひえー、この頃はこんなにまいにち「ともだち」と関わっていたのかね、と驚きを隠せなかった。

社会人になって20数年、さらに結婚して5年、会社に行けば「仲の良い同僚」と会話はするが、プライベートの「ともだち」とまいにち連絡を取り合うことは、まずない。

もし「ともだち」と電話したり、よもや会って話をする、となればそれはもう、一大イベントだ。

そりゃあ、あの頃の「ともだち」も、高校卒業と同時に就職や進学で離れ離れになって、なおかつ結婚・出産となれば、電話ひとつかけるのにも「いそがしいよね...」と二の足を踏む。

そんな時間が20年も過ぎれば、携帯電話の電話帳にはあの頃の「ともだち」たちの連絡先はほとんど無くなっている。

それでも社会人になって数年は、あたらしい「ともだち」と出会うこともあった。

はじめは同僚からスタートしたが、退職してからも連絡をとりあうような、れっきとした「ともだち」。

でも、それも社会人経験を積めば積むほど、たとえば20代も過ぎ、30代、40代、となるにつれて、あたらしい「ともだち」は増えなくなる。

なんで?と聞かれれば、答えはいくつかあるが、とくに社会人生活が長くなると、次第に人と衝突することが億劫になる。イヤになる。

自分のこころには、なるべく穏やかな風を吹かせて生きていきたい。
というか、何をしていてもこれが最優先みたいになってしまう。

だから「誰ともぶつからないから、誰とも仲良くならない」。

事なかれ主義、諦観、愛想笑い、お茶を濁す、無難、八方美人、ひよりみ、オポチュニスト。

そんなことばが似あう瞬間が増えていく。

むかし青かったあの時代は、自分をたくさん主張して、他人とぶつかることを恐れてなかった。

それで壊してしまった関係もあるけど、そういった「勢い」のようなものが、わたしと他人を結び付けてくれてもいたのだと思う。

奥さんとは出会って10年、結婚して5年になるが、何度もぶつかった。
まいにちケンカはしないけど、1年に2~3回はぶつかっている。

その都度、いやあな気持ちになるのは確かだが、「雨降って地固まる」とはよくいったもので、ケンカして仲直り、というクエストをひとつ乗りこえるごとに仲は良くなっている(とわたしは勝手に思ってるけど...)。

もちろん、ところ構わずぶつかることが正義じゃない。
相手を思いやる姿勢はとても大事だ。

だけど、いつも自分を守って誰にも素顔を見せないで生きていても「ともだち」はいっこうに増えない。

それを良しとするなら、それでいい。
もちろんこれに善悪も正誤もない。
生き方、価値観はそれぞれだ。

でももし「ともだち」や「パートナー」とぶつかることがあったなら、衝突をすることは悪でもなんでもないことを覚えておきたい。

ぶつかれるってことは、お互い素の自分で向きあえているんだと、せめて自分だけでも前向きにとらえて、相手に歩み寄っていきたい。

それから仲直りできた「ともだち」は本当に「ともだち」なのだから、大切にして生きていきたい。

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