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大人になると、友達と会うのにも理由が必要になるよね。

それこそ小学生や中学生のころは、放課後に何の気なしに「遊ぼう」と何人かで集まった。
それから「何して遊ぼうか」と決めていた。

遊ぶ内容は、集まった人数となんとなーくの雰囲気で、家でゲームだったり、外でスポーツだったり、と自然に決まっていた。

このあいだは〇〇君のやりたいことやったから、今日は△△君のやりたいことやろうよ、とかそんなパターンもあったような。

とりあえず■■君の家に集合ね、といって目的もなく数人でお邪魔して、おのおのでマンガを読んだり、ギターを弾いたり、窓から無人の森に向かってエアガンを撃ったり、ただ自由な時間を過ごすこともあった。

高校生にもなると、「今度の休みに〇〇をしよう」と、遊ぶ内容をあらかじめ決めた状態で集まっていた気がする。
「カラオケ」とか「ボーリング」とか「ゲーセン」とかね。

それから社会人になり、あのころ集まっていた友達たちは、みな何か仕事を任されたり、夢を追ったり、恋人を作ったり、結婚・出産をしていった。
わたしもそうだ。

そして、次第に目的もなくただ「今度の土曜遊ぼうよ」と友達を誘うことも、誘われることもなくなっていった。

歳を取れば取るほど、集まるには「理由」が必要となっていった。

「飲みに行こう」「ギャンブルをしにいこう」「釣りをしよう」「スポーツをしよう」「バーベキューをしよう」などなど、なにかハッキリとした「やること」が必要。

ただ意味もなく会うことができなくなった。

しかもその「やること」が終わればサラサラと解散する。
たとえばバーベキューを終えて、別の場所に移動してダラダラ過ごすかといえばそうでもない。

なぜなら各自、「許されている時間」がそれなりに決まっている。

それはあんまり長居すると家族や恋人が心配するのかもしれないし、自分自身も「明日は仕事だしな」なんて思うと、自動的に足が家へ向かい始めてしまう。

良くも悪くも、そんな現実をお互いがなんとなく尊重しあって、相手をなかば無理やりにでも「まだいいじゃーん」と引き留めることをしなくなった(酔っているときは別)。

ので、集まって「ヒマだな」とか言うこともない。

でも、大人になればなるほど、友達同士で意味もなく集まって無駄な時間を過ごしたいと思う。

「ヒマだな」に生産性が無いと思ったのは、社会に出たての若かりし頃だ。

酸いも甘いも経験すると「ヒマだな」にこそ、高い生産性と可能性があることを知る。

ゆっくりとした時間を過ごすことは、心と身体にとって何より必要であることに気づく。

今の時代はひとり時間の過ごし方がたくさん増えた。
気疲れをしないひとりで過ごす時間は確かに楽しい。

でも、たくさんのひとり時間を過ごすようになったからこそ、人と話すことの大切さも知った。

あのころのように、意味もなく友達同士で集まって「ヒマだな」と言える時間を過ごしたい。

このご時世も追い風となって、これっていつのまにか、超ハードルの高い夢になってしまったよ。



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