見出し画像

「絹谷幸二 自伝」(絹谷幸二)

・絹谷幸二(きぬたに こうじ)さんという、奈良県出身、御年77歳になられる西洋画家・壁画家をご存知でしょうか。
・以下に、ご本人のホームページやfacebook等から、6点の作品を列挙します。きっと、見覚えのある作品や、行ったことのある場所に展示されていた作品だった、と気づかれる方が少なくないことでしょう。


【作品:銀嶺の女神】(1997年長野冬季五輪公式ポスター)


【作品:天・地・人】(東京芸術劇場 天井画)


【作品:波乗り七福神】(梅田スカイビル  絹谷浩二  天空美術館)


【作品:日月春春湖上不二


【作品:VIVA  YOKOHAMA】(横浜駅 みなとみらい線改札内)


【作品:きらきら渋谷】(渋谷駅 東京メトロ副都心線改札外通路)



・このように色彩豊かで生命の喜びが溢れ、目が”美味しい”と感じる作品を数多く描かれる絹谷幸二さんの個人美術館が、2016年12月、積水ハウスによって大阪の梅田スカイビルの27階に「絹谷幸二 天空美術館」として開館。世界中から多くのファンや観光客を迎え、2019年3月には来場者10万人を突破しました。


・さて、世界中に老若男女のファンを持つ絹谷幸二さんの作品の魅力、そして絹谷幸二さんご本人の人間として魅力、これらを形作ってきた絹谷さんのこれまでの半生(の一部分)が、今回のテーマである「絹谷幸二 自伝」に記されていました。


・古きも新しきも常に柔軟に受け入れ、芸術の世界のみならずスポーツ選手や経済人、お坊さんに官僚、学者まで、多くの世界で生きる人々を愛し、交流し、作品と共にメッセージを発信し続けるその生き方には、私たち芸術を愛す者たちはもちろん、どの業界の方々にも学びとなるであろう”絹谷流の美学”を私は感じます。


・今日はそんな本書を、絹谷さんの作品と共に紹介します。


《私が絹谷幸二さんとその作品を好きな理由》
仏教の教えや感情などをそのまま文字として画面に取り入れたダイナミックな作風
エネルギッシュで豊かな色彩
”当時の空気を素材に閉じ込めている”壁画のロマン
絵画だけに限らず、立体作品や映像作品にも信念を持って取り組まれる芸術家魂


・恐縮ではありますが、上記に、私が絹谷幸二さんとその作品を好きな理由、作品の魅力を挙げました。
・それぞれの魅力が生まれたきっかけがこの自伝には書かれていましたので、重ね重ね僭越で恐々粛々としてしまいますが、以上に私が挙げた、私が感じている絹谷作品の魅力のルーツをたどっていく形で本書の感想と紹介をしたいと思います。


《①仏教の教えや感情などをそのまま文字として画面に取り入れたダイナミックな作風》

・絹谷さんの作品には、仏教の教えや考えが取り入れられていることが多いのですが、これは絹谷さんが古都・奈良県は奈良市の元林院町(がんりんいんちょう)に生まれ育ち、幼い頃から数々の仏閣に親しんでいた影響が大きいとのこと。

【作品:不二法門(ふにほうもん)
※「不二法門」は仏教の維摩経(ゆいまきょう)教えであり、相反する2つのものは、実際には別々に存在しているわけではなく、同じものの別の側面である、というような意味。この作品では龍の口から「不二法門」の字が現れ出ている。


・元林院町は、かつて江戸時代には仏画の絵師が住んでいたことから「絵屋(えや)町」とも呼ばれており、明治以降は芸妓(げいこ)町として栄え、絹谷さんも少年時代には三味線や太鼓の音を日常的に聴いていたそうです。
・そして現在でも、芸妓町として最盛期を誇った大正・昭和期の街並みの面影を残している趣深い地域です。


・絹谷さんの生家「明秀館」は、絹谷幸二さんの御曾祖父様、絹谷幸二さん(同名!画家、絹谷幸二さんはこの御曾祖父様からお名前をいただいたとのこと)が明治半ばに始められた料亭。
・その明秀館の裏手にある置屋(おきや:芸妓さんたちを抱える料亭など)、「萬玉楼(まんぎょくろう)」が本家にあたります。


・明秀館や萬玉楼には、かつては初代総理大臣となった伊藤博文、小説家の志賀直哉や白樺派の作家や画家など、多くの文化人、政治人が訪れ、サロンのような場所になっていたとのこと。中でも志賀直哉は、萬玉楼に上がり込んでは麻雀に興じたそうです。


・そのような由緒あるご実家で日々を過ごされつつ、少年絹谷さんの遊び場は数々の仏閣の境内。

『元興寺(がんごうじ)の軒下や東大寺の境内では探検ごっこ。当時の元興寺は屋根にペンペン草が生える荒れ寺で、子供の冒険心を大いにかきたてた。東大寺の裏に洞窟のような穴が三つあいた防空壕があり、コウモリをいぶし出そうと火を焚いて、中で煙にまかれて窒息しそうになった』(「絹谷幸二 自伝」<絵はうその始まり>より)

・小学校高学年に上がると、絹谷さんはご実家と懇意にしていたお寺、「福井之大師」(不空院)で夏の数週間を過ごされるようになります。
・朝晩に般若心経を唱えたり、境内の掃除をしたり。食事は一汁一菜のつましいもので、厳格な生活。
・この毎年夏の習慣は高校まで続いたそうで、こうした環境が絹谷さんに仏教的な精神と感性を深くまで根付かせました。


・また、政財界の大物や一流の文化人が集まり、華やかに食事や遊びが日常的であったご実家での生活と、お寺での厳格な生活を往復することで、絹谷さんは現在の作品作りの姿勢でもある「双眼でものを見ること」の感覚を身に着けてゆかれます。

『俗世の花街と仏門の世界、どちらにもなじんで育ったせいか、私は同世代の少年よりも大人びていた。聖俗、生死といった矛盾して見える二つのことを「双眼」で理解する大切さに気がついていた。(「絹谷幸二 自伝」<寺住まい>より)』

・「不二法門」、「色即是空」など、絹谷さんの作品には仏教の教え、または心の叫びそのものがそのまま文字として画面に取り込まれていることがよくあります。また、菩薩や不動明王など、仏教の登場人物たちが作品の主題となることも多くありますが、その背景には、このように幼少期から仏門に慣れ親しんだ経緯がありました。

【作品:金戒光明寺


【作品:平和を祈る自画像(発火激情)



《②エネルギッシュで豊かな色彩》

・絹谷さんの作品で私が好きな理由のひとつ。それはエネルギッシュで豊かな色彩を持つ作品が多いことです。
・この独特の”色彩”が生まれた大きなきっかけは、東京藝術大学卒業後のイタリア留学にさかのぼります。


・1962年4月に東京藝術大学の油画専攻に進学されると、熱心な先生方や才能豊かな学生たちとの青春を存分に謳歌されます。
・美術の勉強はもちろんのこと、高校卒業まで美術部と野球部を掛け持ちするほどに熱心に取り組まれていた野球についても、独立美術協会(1930年設立の洋画団体)の野球部でプレーされました。その他、独立美術協会の先輩方と全国へ釣り巡り、ダイビング、コンパなどなど。


・4年生になってすぐに制作に取り掛かったという卒業制作のテーマは「無常」。形ある限り、いつかは朽ちる。遊び場として数多くの仏閣に慣れ親しんでいた少年時代から、人の世のはかなさは子供心にも感じられていたそうです。
・卒業制作で制作した作品【蒼の間隙(あおのかんげき)】は、1966年2月に東京都美術館での卒業制作展で展示され、最優秀賞である「大橋賞」を受賞されます。


・卒業後は東京藝大の副手として活躍されつつ、ご自身の作品制作にも依然熱心に取り組まれます。
・そうした生活の中で、現在の奥様と、そして絹谷さんのイタリア留学のきっかけとなる師であり、アフレスコ(壁画)の第一人者であるブルーノ・サエッティ先生と出会われます。


・サエッティ先生との出会いは、氏が東京藝大でアフレスコの集中講義を開かれた際に、絹谷さんの作品をご覧になったとき。そこでサエッティ先生は絹谷さんに「アフレスコの勉強をするならヴェネツィアに来なさい」と誘い、絹谷さんはイタリア留学を決意されます。


・イタリア留学を前に、奥様とご結婚。結婚式の翌朝、新婚旅行も兼ねた、ご本人曰く”片道切符の新婚旅行”へ旅立たれます。


『イタリア・ヴェネチアのサンタルチア駅。1971年にこの駅に降り立って体が5センチくらい宙に浮く感覚を味わった。波間に揺れるラグーナ(干潟)の町だから、ではない。空気を吸い込んだとたん、それまでの私を束縛してきた日本的なるものが飛び散って、赤でも青でも、どんなイタリアの光彩も受け入れられると思った。それは、私の絵が変わっていくという予感のようなものだったかもしれない』(「絹谷幸二 自伝」<アクア・アルタ>より)


・イタリアの人々の親切で陽気な国民性。バーへ行けば隣の劇場で公演を終えたばかりのオペラ歌手がやってきてアンコール代わりに1曲披露、というような生活に根付いた芸術。ブドウ酒の酔い。キッスと抱擁で大胆に表現される愛。そして敬虔な祈りなど。
・アカデミア美術学校での学びに加え、こうしたイタリアの持つ”色彩”の数々が、絹谷さんの作風にも影響を文字通り色濃く与え、現在の「エネルギッシュで豊かな色彩」が生まれる元となりました。


【作品:飛鳥華薫る


【作品:黄金背景富嶽旭日・風神・雷神



”当時の空気を素材に閉じ込めている”壁画のロマン

・アフレスコ(フレスコ画)は、生乾きの漆喰に顔料で絵を描きます。
・漆喰の水分(石灰水)が蒸発するにつれて、空気中の炭酸ガスと触れることで化学反応を起こし、壁の漆喰の表面に透明な被膜を張り色が完全に壁に定着します。この被膜は作品を外部から守る役目も担い、遥か後世まで作品を残します。およそ2万年前に描かれたフランス、ラスコーの壁画やスペインのアルタミラの壁画が現在まで色鮮やかに残っているのはこのためです。


・漆喰が乾くまでのおよそ24時間を「ジョルナータ」と言います。
・乾いてしまうと、もう壁画は顔料を受け付けることはありません。
・つまりこのジョルナータの時間中は、外出はもちろん食事すら時間を割くことは惜しく、かつ、迷いなく一気に書き上げる必要があります。


・生乾きの漆喰のが蒸発する間に吸い込むのは、空気中の炭酸ガス、そして作品を描く画家自身の吐息です。
・2万年前に描かれたラスコーの壁画には、2万年前の空気と、それを描いた人類の祖先の吐いた空気が。およそ500年前にラファエロによって描かれた【アテナイの学堂】には、500年前の現地の空気とラファエロ自身の空気が取り込まれていることでしょう。


・私はアフレスコの作品を目の前にしたとき、作品そのもののメッセージの他に、その作品が描かれた当時の現地の空気感、そしてそれを時間的な制約がある中で一気に書き上げた画家の情熱、作品に込めた想いまでも感じます。

【作品:アテナイの学堂】(ラファエロ)


・絹谷さんが油画に加えてアフレスコを描かれるようになられたきっかけは、東京藝大時代の研究旅行で、奈良・法隆寺で観た壁画です。
・1949年1月、法隆寺金堂で火災が発生。7世紀ころの作とされる壁画の多くが焼損してしまいます。焼損した壁画や柱はそのままの配置で別の場所に保存されますが、絹谷さんは1964年の研究旅行でこれらの作品を見学されました。

『柱はすっかり炭化し、壁画の色は失われ、わずかに輪郭線を残すのみ。しかし、劫火をくぐり抜けた壁画の異様な様相は、紙やカンバスに描かれたどんな絵も吹き飛ばしてしまうほどの迫力があった。人間一人が持つ時間など超越して存在しつづけるのが壁画なのだとcっ北韓下。子供のころから見慣れた東大寺南大門や大仏様の雄大さに戦慄さえ覚えたのもそのときだ。』(「絹谷幸二 自伝」<卒業制作>より)


・壁画のロマン。これがアフレスコの大きな魅力の一つです。



《④絵画だけに限らず、立体作品や映像作品にも信念を持って取り組まれる芸術家魂》

・「平面は立体を希求する」とは、絹谷幸二さんご本人の言葉です。
・こうした考えのもと、絹谷さんは油画やアフレスコのみならず、立体の作品も多く作成されています。


・「平面は立体を希求する」というまさにその言葉のとおり、絹谷さんはご自身が平面作品として描かれた作品を、のちに立体化して再現されることが多くあります。


【作品:コンフィジィオーネ(混沌)
※この作品は1987年にアフレスコとして作成された後、1993年に同名の立体作品としても作成されました。


・発泡スチロールを熱したニクロム線で成形し、色を塗って作品を仕上げる。
・実物を目の前にすると、作品の大きさや色からとてつもない重量感を感じ、全くそれが発泡スチロールだとは気づきません。
・色即是空。色も物質も本質は「虚」である。この仏教のメッセージは立体作品になるとより強く私は感じます。


・大阪、梅田スカイビルの「絹谷幸二 天空美術館」では、絹谷さんのアフレスコ作品を3D映像に落とし込んだ3D作品を鑑賞することができます。
・この作品が素晴らしい。
・「まるで作品の中に入り込んだかのような」と言うとなんだかテーマパークのアトラクションのように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、元のアフレスコ作品の魅力はそのままに、観る者の視覚だけでなく聴覚をも刺激し、新しい絵画体験として見事に成立していると私は思います。


・芸術だけの世界に閉じこもることはなく、芸術をきっかけとして常に様々な業界の方々と交流し、あらゆる体験や経験から活力を得て日々の活動の糧とされる絹谷さん。
・絵画作品だけでなく、立体や映像作品にも深い関心を寄せて作品制作に取り組まれるその姿勢は、あらゆる物事に対して、様々な側面から「双眼」で物事を見ることを身につけている絹谷さんだからこそできる姿勢ではないでしょうか。



・世の中を見つめ、自分の言葉で語る芸術家という職業。そんな芸術家としての人生をどのように歩むべきか。そのヒントが本書には語られていたように思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?